映画『火花』を観て

映画の終盤で、主人公の徳永と、徳永が何年も師と仰いでいた神谷が、二人が初めて出会った熱海の中華そば屋で酒を飲み交わすシーンがある。


10年前、徳永は熱海の営業で繰り広げた自身の漫才をゴロツキ共に非難され、肩を落としてステージを降りた。その時出会ったのが神谷であり、「敵取ってやるよ」とすれ違いざまに言ったかと思えば、ステージ上に立つや「俺はその人を見れば地獄に行くか、天国に行くかが分かる」と言い、道行く観客全員を指差し「地獄」とだけ吐き捨てる、というなんともめちゃくちゃな漫才を披露した。

無論ゴロツキからは怒号の嵐だが、神谷は止めない。まるでおろし太鼓のように「地獄」の速度を上げ、ボルテージが最高潮に達したその瞬間、通りがかった少女を指差し「良い地獄」と言う。怒号は止む。少女は笑う。怒号は再び鳴り響く。笑いはそれだけだが、徳永の心には笑いより強烈な緩和が訪れたに違いない。以来、徳永は神谷を師と仰ぎ、彼の背中を盲目的に追い続けた。

徳永のは、自己防衛が故の尊敬だ、と片付けるのは容易い。若かりし頃の徳永が作り上げたものは、笑いというより笑いの形をした思想であり、その思想の保持に殆どの関心があったことは確かだ。故にその思想を届ける先、お客様にとって伝わらなければ意味がないと気付いてから、何も変わらぬ神谷に寧ろ苛立ち、内面ではなく髪の色だけで弟子である自分を真似た神谷を見限った。

しかし、それが何だと言うのだろう。

徳永は舞台を降りた。数年ぶりに現れた神谷は豊胸をし、またもや醜態を晒した。それでも徳永は熱海に戻り、肩を並べて花火を共に観た。そこにあるのはもはや自己防衛ではないだろう。そんな本能は、花火と共に消えては昇る。煙の匂いに身体を巻かれる。そうして始めて、自分と師匠が違う人間であることを自覚する。その自覚の積み重ねが、自分の代わりとしての神谷から、現実の神谷を引き剥がす。そうして2人は対等になった。それは自己防衛などという簡単な決定論では片づけられない、自由な関係だったと言えるだろう。

話を戻す。


花火を観た後、中華そば屋でビールを飲み交わしながら、神谷があるチラシを目にした。熱海漫才大会と書かれたそのチラシが、神谷の心に火をつけた。

「漫才をやろう」

と神谷が言う。徳永は嫌気がさし、苦い顔で断るが、神谷は止まらない。

「もし世界に俺だけしか漫才師がいなかったとしたら、俺はここまで頑張れなかったと思う」

「競争相手がいたから、俺もここまで漫才をやってこれた」

「それと同じで、俺の漫才だって、同時代の漫才師に影響を与えたんだ。」

「それは、確かなんだ。無駄なことなんて、何一つないんだ。漫才をやる。それを誰かが目にする。笑おうが笑わまいが、それだけで価値があるんだ。徳永、俺たちは、確かに笑いの歴史を作ったんだ。」

譫言のように、神谷は繰り返した。
徳永は、終ぞ動かなかった。
彼の大き過ぎる声は、スクリーンの中では誰にも耳を傾けられなかったが、すべての創作者の耳に鳴り響き、その不安が泣き止むまで寄り添った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?