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シドニーへリロケーション物語
タイで生まれ、日本で育ち、香港で13年働いたワタクシ。そんなワタクシに突如としてそのチャンスはやってきた。
それは、シドニーへの転勤である。
人生、4ヶ国目の移住挑戦である。
今日はどのようにしてそんなことになったのかをただツラツラと述べる次第である。
時は世界がコロナに翻弄され…終わり始めた2022年。
デモの暴徒化とそれを鎮圧する警察との抗争からの流れですっかり雰囲気が悪くなったこの街も、ロックダウンをして3年が経ち、様々な規制で思い出の店も軒並みつぶれ、元気も活気もなくなってしまった。
そんな中、政府はビルごとに強制的にPCR検査を行い、区画ごと封鎖だの、ビルごと隔離だの、同じフロアの人全員隔離施設へ収監だの行っていたので、
「明日こそは強制PCR検査で偽陽性がこのマンションの誰かに見つかり、Wi-Fiもない隔離施設に収監されるんじゃ…」という不安を抱えながら暮らしていたものである。
仕事も完全リモート、外出しても行く場所もなくなり、することもほぼなくなり、一人暮らしのため誰とも話さず声帯が衰え老人の声の様になっていったある日、家庭の事情で緊急で3か月日本に帰ることになったワタクシ。
その当時の日本は、ワタクシが暮らしていた街と比べると、ビックリするくらい規制がなく、翌朝目覚めたとき、まず一番最初に「なんて安心して暮らせるんだ」とつぶやいたことを今でも覚えている。
加えて日本の清潔さ、サービスのクオリティーの高さ、人々の礼儀正しさ…3年ぶりの一時帰国ですっかり忘れていた日本のアレコレに逐一驚き続けたワタクシ。
最初の1ヶ月はただただ規制のない日常を楽しむ。
2か月目には「日本でしかできない事をすべてやろう」と、健康診断から歯医者から美容施術やら根こそぎ総なめにする。そして、理由もなくTOEICを15年ぶりに受験してみたりした流れで、リクルーターと面接をするようになる。
3か月目、自分の市場価値を確かめようと、半分経験、半分「そんな未来も面白いかも知れない」と面接を受けるようになったのである。
そして、4か月目、香港に戻り、隔離されたホテルの中で最終面接をオンラインで行い、採用通知も頂いたワタクシ。
隔離の収監から解放されたところで街はいまだ規制まみれ。夜は外食できないとか、ワクチンも3回目だか4回目だか打たないとスーパーも入れない、
美容院にも行けないだのなんだの色々あった時期で、自由に友人と集まったりもできない状態から解放されることや、久しぶりの日本が楽しすぎ、ワタクシはもう帰る気満々だったのである。
そして、採用通知を貰うとともに慎ましく、昭和に引退し、ステージにマイクを置き、ステージを去った歌姫の様に、感謝の気持ちをいけしゃーしゃーと語りながら、惜しまれながら退職を…
…するはずだったのだが、
ワタクシの上司がそれはそれは熱心に
「どうやったら君を引き留められる?どういう条件を出したら残ってくれるか?」
と言ってくれたのである。
「私はこの会社が嫌になったわけじゃないんです。今でも感謝していますしどーのこーの。ただ、この街にはもういられないんです…」
と、場所のせいにしてみると
「じゃあ日本で働いて良いと言ったらどう?」
などと言い出す上司。
弊社に日本支社はなく、それはそれは大変な手続きやプロセスになるから時間はかかるかもしれないけれど…
と続けるので
「あ、いえ、日本に帰るからには日本でできる経験がしたいんです…」と伝えるも、悲しげな表情を見せるので、上司を慰めようと
「まぁ、いつか、(上司のいる)シドニーでお仕事をできる機会とかあったら素敵ですねと思っています」
とつぶやいたら…
…真に受けられた。
そしたら、
「シドニーでいいの?それならもっと簡単に実現させてあげられる」
と切り返してきたのである。
その時、私は日本に帰る気でいたので、シドニーに行くなど考えたこともなかったので豆鉄砲を食らったハトの様に面喰い、
え・・・。
えー・・・?
ええええ???
と思ったのであるが、
そ、、、それはそれで面白いかも知れない…
と不意に思ったのである。
それをきっかけにたった5日間、旅行で行ったことがあるだけの場所での暮らしを半日真剣に考えてみたところ、ワクワクしたので、乗ることにしたのである。
…だって、「簡単ですぐに実現してくれる」って言われたから…
・・・簡単ですぐに実現…するはずが、、、
…ふたを開けたら2年がかりである、。
えぇ、これは会社の内部の事情で人の出入りが早すぎて、新しい雇用が出来ず心底困り続けていたため、異動するにできず、2年もかかってしまったのである。
しかし、この5月にようやくVISAがおり、「じゃあ6月末に…」と持っていたら、別の社員に横やりを入れられ、今年の末くらいまで延ばされそうなニュアンスを感じひと悶着あったのであるが、ようやくこの8月に移ることが決定した次第である。
2年前に去るはずが去ることが出来ず、ストレスとイライラが募り続けたワタクシも、いい加減この街が嫌になっていたのであるが、
今になって、ようやく名残惜しさがわいてきた次第である…。
この様な人生の転機はそれほど多いものではないだろうと思われるので、その寂しさを抱えつつも誇らしさを胸に新たなステージへよじ登る所存である。