気付かないうちに失ってしまった自信
前回の投稿の続きのようになりますが、
私たちは、気付かないうちに自信を失ってしまっているのではないかというお話です。
そもそも、自信とは何かということですが、読んで字の如く「自分を信じる力」という風に定義をつけたいと思います。
何かを成し遂げたいと考えるときに、「よし、頑張るぞ!」と息巻くことができるかどうか。
自分にはきっとできるはずだ、自分はこれまでも一所懸命頑張ってきたから今回も必ずできるはずだ。という風に自分を鼓舞し前に進むということです。
逆に、自信がないとはどういうことか。
自分にはできっこない、こんな高い目標超えられるわけないじゃん。というような言葉を出してしまう状態ですね。
もう一度題名に戻りますが、私たちは気付かないうちに、その自信を失ってしまっているなと思うわけです。
その理由として、子供たちの根拠のない自信が挙げられると考えます。
子供たちは、大人が一見難しいだろうと思うことに対して、「やりたい!できる!」と言い、実際にそこに向かっていくことがよくあります。
大人たちは内心、「いやーできないだろうけど、挑戦することは大事だし、やらせてみるか」という考えのもと、子供たちにチャレンジをさせます。
結果として、ほらーやっぱりね。という風に、欲しい成果に対して未達成に終わってしまうことはあります。
しかし、それはその体験の大小にもよりますが、子供たちは意外と、やってのけることもしばしばあるのです。
大人も無理だと思っていたことを、案外サラッと達成してしまうということがあります。
私もこのことを体験した時に、あれ?と思ったわけです。
もしかして、自分自身もできることはもっとたくさんあるのに、できっこないだろうな。自分にはできそうにないなという風に、自分に対し、「今までの経験上、これはできないよ」という風に自分に暗示をかけ、つまり自信がないからと諦めてしまっていることって案外あるのでは?と気付きました。
もちろん、子供たちが様々なことに挑戦するという行動の裏付けに、大人との経験値の差はあると思います。
大人は子供よりも様々な経験・体験をしておりますので、「経験上、これは無理だな」という予測をすることはある程度できる。
しかしその経験・体験というものが、自分の一歩踏み出そうとする足を止めてしまうこともあるなと思うのです。
これまでの経験上、この目標は達成できないな。
これまでの経験上、東大には入学できないな。
これまでの経験上、この職業にはつけないな。
これまでの経験上、この課題は解決できないな。
こんな言葉を心の中で唱えてしまうのです。
しかしよくよく考えてみれば、これまでの経験を超えなければ、新しい経験値を手に入れることはできませんし、これまでもきっとそうして人間としての成長を遂げてきたはずです。
しかし、誰しもが、「ここまでか…」というボーダーラインを自ら作ってしまっているのです。
では、どうしてそんなボーダーラインを心の中に設けてしまうのでしょうか?
それはこれまでも何度も指摘をしてきましたが、周りの人からの「言葉」です。
私の大好きな山口周さんはこのことを「呪い」と表現されておりますが、まさにその通り。
具体的にどんな言葉かというのは、この投稿の冒頭部分にかなり入れ込んでみました。
「できっこない」、「目標が高すぎる」、「できない」、「無理」と言った類の言葉です。
こんな言葉が周りから誰しも受け取ってしまっているということです。
誤解を恐れぬように付け加えると、周りの大人とは、親・先生といったとても身近な大人たちのことです。
可能性を奪うコトバという投稿もしましたが、ではそんなコトバからどうすれば良いのか?
これから少しずつ紐解いていきたいと思います。
主にこれまでは、「私たちは日々、可能性を奪われている」ということについて書いてきました。
次は、もう少し深いところにせまり、「言葉が持つ力を信じる」ことについて記載していきます。