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Thailand,Bangkok.
タイは一年中蒸し暑い。
だから昼は涼しい部屋か陰で休んで、夜日が暮れるとおれの仕事が始まる。
雪国育ちのおれはタイに来た当初、感銘を受けた。
暖かい。
若い頃のおれにとって、移住する理由はそれだけで十分だった。
だがそれも慣れてくると、昼間外を歩くのが嫌になる。
日の暮れてくる夕方五時ごろ、仕事の準備に取り掛かる。市場に行き、仕入れるものを探す。
市場の匂いは独特だ。場所によっては非常に臭いところもある。だがそんな空気が嫌いではない。
値段は交渉制。こういう場所では、英語の話せるタイ人は少ない。だが時間はかけたくない。こちらと向こうの折り合いを付ける時、ギリギリまでこちらに寄せさせるのがポイントだ。安く仕入れる為なら、さらに多少汚い手を使うこともある。
夜一時ごろ。
仕事が終わるころには、夕方ごろから飲みだしたタイビール“SHINGHA”がだいぶ回りだしている。悩みの種だったマオのことも、アルコールが多少はふやかしてくれる。
このくらいになると、だいぶ涼しい。路上でビールを煽る人々は帰りだす時間だ。
地元のタイ人は原付にまたがり、閉め終わった屋台で“LEO”(これまたタイのビール)を飲みながら談笑している。ずいぶんタイにいるが、タイ語は挨拶程度しかわからない。内容は不明だが、可愛らしい発音がなんだか好きだ。
間抜け面の白人は観光客だ。大方スペインかフランス、あるいはドイツ人。背の高い三人が徒党を組み、大声で流暢な英語を話している。
ビールが切れたので、コンビニに買いに行く。自分の店とはいえ、在庫に手を出すのは少し気が引ける。
一年中、ビーチサンダルとTシャツで外に出ることができるのは、いつになっても嬉しい。
高校まで住んでいた山形県。寒いから、厚いコートを背負う。一日中雪かきに追われることもある。乾かない洗濯物に、大雪で何度もスタックする車。
ビーチサンダルで深夜のセブンイレブン。タイはセブンイレブンが多い。
バイクタクシー、トゥクトゥク、若者、ラリった白人、果物売りなどが深夜のセブンイレブン前に集結する。日本における、深夜のドンキに集まるキティちゃんのサンダルを履いたヤンキー・ギャルのようなものだろう。あるいは明かりに集う蠅。
ビールを買いにきた。だが、レジ前の行列で嫌と言っても目に入る、豆の誘惑にも抗いがたかった。タイのセブンには必ずと言っていいほどおいてある豆。ピーナッツや揚げた豆などの小袋が、10バーツかそこらで売っている。物価の上がったバンコクだから、ビールのお供に丁度いいのだ。
[Execuse me?(すみません?)]
後ろから声がした。聞き覚えのある声だったので、無視した。数秒、沈黙が続いた。
[Me?]また一つ、後ろから声。日本訛りの、震えた英語だった。
振り向きたい衝動を抑え、様子を見てみることにした。
[Ah...Howmuch is it?(これっていくらですか?)]
声がした。ヤニスの声だ。いつもと同じ手口。そしてヤニスも恐らく偽名だ。
「あー-、、please wait」日本人の声。
[Areyou Japanese?(もしかして日本人?)]
「いえす?」
ここからヤニスはあからさまに喜び、自らが着る“JAPAN”Tシャツを見せつける。大抵の日本人観光客は、これで大喜びだ。
そして「祖父から貰ったものなんだ」と大事そうに古めかしい旧千円札を見せびらかす場合もある。ここで、フランスのマネーをさりげなく見せるのが鉄則だ。自分から財布を開いて金を見せつけることによって、信用を得るのだ。
[I am working at Honda!(ホンダで働いてるんだ!)]
What? 日本人の声がした。
これは後から聞いた話だが、HONDA,HONDAと言って社員証を見せつけられたらしい。
[So,Inever seen Japanese new money.Canyou see it pls?] 彼は言った。
「あー、、」日本人は言いよどんだ。理解できていないのだろう。
I wanna see money!(お金見せてほしい!)
Japanese new money!(新しい日本円!)
ヤニスは言った。
先程よりやや短い沈黙の後、背後からスーツケースのジッパーを開ける音がした。
眼前からも声が聞こえた。
SAWASDEEKRUB.(タイ語でこんにちは、だ)
地元タイ人の店員。レジの行列は終わっていた。次はおれの番だ。ビールは今もキンキンに冷えている。
ジッパーが開く音。タイ人のレジ店員はこちらを見ている。
唇を噛んで、おれは後ろを振りむいた。
笑みを浮かべるヤニスと目が合った。数秒の沈黙。おれは口を開いた。
「スられるよ」
えっ?と声を出し、日本人はファスナーを開けるのをやめた。日本人はメガネをかけた白髪の四十台の男で、いかにも脱サラ直後といういで立ちだった。
ヤニスは一瞬、とても嫌そうな顔をした。目を逸らし、足早に立ち去って行った。
ヤニスのボスはマオだ。中国訛りのタイ語を話す生粋のワル。こいつもきっと偽名だ。奴は完全にイカれてる。マオとは前に一度別件でトラブっていたので、できれば本当に関わりたくない。
白髪の日本人は興奮しながらも、なぜかとても嬉しそうだった。質問攻めになるのはごめんだったので、すぐレジに向かった。その日のビールはタダになった。
ある夜だった。
「客がいなくてよかった」なんて、この瞬間以外考えることもない。
すぐ後ろで。邪悪の声がした。
[Don’t look back.And put your hands up(振り返らず、手を上げな)]
静かな声調。事を荒げるつもりはないのか?
珈琲を淹れていたそのままの姿勢でおれはゆっくりと両手を挙げた。
[เหี้ย]タイ語だ。
[What? I give you money(なんだ? 金を払おう)]おれは言った。
[ฆ่าคุณ]またタイ語。
[Ok? I’ll take out my wallet.doller,doller(いいか?財布を取りだすぞ)]財布を出そうとして、やめた。
[มันยากที่จะทางานเพราะคุณอยู่ที่นี่]彼は激しく捲し立てた。
「だからなんて言ってんのかわかんねえってんだよ?! イングリッシュプリーズ!!」叫んだ。
[ให้ตายเถอะญี่ปุ่น]罵倒している様に聞こえた。
おれは振り返る。
目が合ったのは、銃口をこちらにむけるマオだった。
頭の中で判断したのは一瞬だった。状況と表情。ぎらついて光るマオの黒い瞳孔。危険な雰囲気と空気。
左下に身を屈めた。同時に乾いた火薬の音がすぐ側で弾けた。正解だったのかはわからない。
マオの握る拳銃が物理学に押され空を跳ねたので、おれは飛びかかった。