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AU#42:コントロールからカオスへ:前十字靭帯再建手術後の回復過程における視覚的認知課題の漸進

序文
前十字靭帯(ACL)損傷の多く(70%以上)は、急激な減速や方向転換を必要とする動作中に発生します。ACL断裂後は、前十字靭帯再建手術(ACLR)が一般的な治療法であり、術後のリハビリテーションと組み合わせて実施されます。しかし、受傷前の競技レベルに戻ることができなかった選手の割合の大きさ、再受傷率の高さ、そして現役選手としてのキャリアの短縮などによって、従来のリハビリテーションの有効性には疑問が残ります3。近年、ACL断裂が脳の可塑性に影響を与えると考えられていることから2、怪我による中枢神経への影響を考慮し、神経生理学的要素を取り入れることがリハビリテーションを進歩させるきっかけになるかもしれません。今回紹介する解説論文は視覚認知の二重課題 (dual-task)を段階的に漸進させるために考案された概念的枠組みとACLR後のリハビリテーションの応用例を紹介しています。

論文概要
ACLR後の視覚-認知補償に関する神経生理学的基礎
前十字靭帯断裂は、中枢神経系に代償性の適応を引き起こすと考えられている。損傷していない人と比べて、膝関節の単純な運動課題中に視覚認知機能に関連する脳領域が過剰に活性化するという神経可塑性が起こる可能性がある。 受傷による靭帯内の固有感覚受容器から中枢神経に送られる求心性信号の消失が膝関節周囲の位置覚および運動覚の低下を招き、視覚からのフィードバックに依存した運動制御を行うようになると考えられる。さらにリハビリテーションの指導によっても選手は自分の体の位置や動きに意識を向けた状態で動作を遂行することを学習する傾向がある。

手術から競技復帰を通して視覚認知の二重課題を実施する理論的根拠
スポーツ活動中、選手は極めて高い視覚認知負荷に直面する。例えば、サッカー選手は周囲の選手の位置やボールの動きといった視覚情報を処理しながら、予測できない敵選手の動きに合わせて最適な動作を選択する意思決定を迫られる。 ACL損傷後に代償的な神経可塑性が残った状態で競技復帰をした場合、視覚認知負荷が高まる状況で複雑な関節や筋活動の連動性のエラーを咄嗟に修正できなくなるため、ACL損傷のリスク動作(例:ニーイン・トーアウト)が生じ、再受傷に繋がる可能性がある4。 視覚認知機能に依存しない運動制御を獲得するため二重課題(dual-task)を取り入れ、負荷を段階的に漸進する。二重課題は注意分配(divided attention)と選択的注意 (selective attention)が重要な要素である。 注意分配は2つ以上の刺激に同時に意識を向けることとされる。選択的注意は適切な刺激を選択し無関係な刺激を無視することとされる。 二重課題によって意図的に意識を複数の対象へ向けさせることで、選手は複数の刺激に等しく反応することが困難となる。例えば、膝を内に入れないように意識を膝に向けて片脚スクワットを行っている際に算数問題などの認知課題を付与するとニーインなどの動作エラーが生じる可能性がある。

術後早期から開始する視覚認知課題の段階的漸進の概要
コントロール-カオス コンティニュアム(Control-Chaos Continuum: CCC)とは、競技復帰に向けたフィールドで行うリハビリテーションにおける‟負荷”の質的・量的な側面に着目した概念的枠組みである5。‟カオス”とは、次に何が起きるか予測できない認知的負荷が極めて高い状態での運動を示す。 筆者らはコントロール-カオスの概念を視覚認知の二重課題に応用した。認知的負荷のない‟コントロール”から‟カオス”へと段階的に二重課題の認知的負荷を高める。本来CCCは後期リハビリテーションでの使用を目的に考案されたが5、二重課題に特化したCCCは術後できるだけ早い段階から実施するように意図されている。

結果
ACLR後リハビリテーションの早期および中期におけるCCCの例を図. 1に紹介する。
図. 1
Phase 1: High Control
目標: 動作課題の安定性と動きの質の獲得。
視覚認知課題例: なし。
動作課題例:
早期 - ストレートレッグレイズ (SLR)を行う。
中期 - フォワードランジを行う。

Phase 2: Moderate Control
目標: 連続反復動作中に視覚的に表示される
一段階のワーキングメモリー課題。
視覚認知課題例: 数学問題の表示。ランダムな色の表示。
動作課題例:
早期 - 表示されるタブレット画面に表示される簡単な計算をしながらSLRを行う。
中期 - 表示された色のコーンに向かってフォワードランジを行う。

Phase 3: Control to Chaos
目標: 反復動作中に視覚的に表示される二段階のワーキングメモリー課題。情報を整合する意思決定。
視覚認知課題例: 数学問題の表示。
動作課題例:
早期 – 奇数の答えは大腿四頭筋セッティング。偶数はSLRを行う。
中期 - 奇数の答えはカウンタームーブメントジャンプ(CMJ)。偶数はフォワードランジを行う。

Phase 4: Moderate Chaos
目標: 多段階の情報処理と反応抑制
視覚認知課題例: 簡単な数学問題と色を同時に表示。
動作課題例:
早期 - 奇数の答えは大腿四頭筋セッティング。
偶数はSLRを行うが背景が赤色だった場合は動作を自制する(No-go)
中期 - 奇数の答えはCMJ。偶数はフォワードランジを行うが背景が赤色だった場合は動作を自制する(No-go)。

Phase 5: High Chaos
目標: 異種感覚の統合、予期せぬことへの反応、反応抑制、
視覚的動揺、身体的動揺
視覚認知課題例: Phase 4の課題に視覚的動揺(例: ストロボスコープの使用)や身体的動揺(例: 施術者が上半身を押す)を加える。
動作課題例: 
早期 - 奇数の答えは大腿四頭筋セッティング。
偶数はSLRを行うが背景が赤色だった場合は動作を自制する(No-go)。
ランダムなタイミングで施術者が挙上した足に動揺を加える。
中期 - 奇数の答えはCMJ。偶数はフォワードランジを行うが背景が
赤色だった場合は動作を自制する(No-go)。
ランダムなタイミングで施術者が上半身に動揺を加える。

図.1 は Chaput M, Simon JE, Taberner M, Grooms DR. From Control to Chaos: Visual-Cognitive Progression During Recovery from ACL Reconstruction. J Orthop Sports Phys Ther. 2024 Jul;54(7):431-439. doi: 10.2519/jospt.2024.12443. Epub 2024 Jun 4. PMID: 38832659. より引用し翻訳

結論
視覚認知の二重課題はACLRの術後早期から開始することができる。できるだけ早期から実施することでACLR後に見られる神経的な代償戦略の発達を抑える可能性がある。二重課題を与えた時の視覚認知的エラー(例. No-goの失敗, 誤った動作の選択, 意思決定の遅延)や不良動作の出現(例. ニーイン・トーアウトの出現)はエクササイズの負荷設定やCCCの段階を進めるかどうかを決めるための重要な情報となる。また選手が身体的パフォーマンスを維持するため認知的パフォーマンスを犠牲にしている、あるいはその逆を行っているかどうかを判断することは競技復帰のタイミングを決定をする際に重要な情報となりうる。

まとめ
今回紹介した論文を読むことで、ACLR後のリハビリテーションと競技復帰の判断は視覚認知的側面からも慎重に評価すべきということがわかります。しかしACLR後のリハビリテーションには様々な要素が影響します(例: 組織学的要素、バイオメカニクス的要素、心理的要素、社会的要素)。視覚認知的要素はあくまでその一つで、どんな怪我においても復帰目標となる競技の特性を確認し、見落としている要素がないかを広い視野で考えることが大切かもしれません。論文内で紹介されているCCCの例はテクノロジーを使用していますが、テクノロジーがない環境でも工夫次第で視覚認知要素をリハビリテーションに取り入れることは可能です。この解説論文から得た発見が今後の研究の発展と競技復帰に向けたリハビリテーションに携わるメディカル・パフォーマンスチームにとって有益な情報になれば幸いです。

Reference

  1. Chaput M, Simon JE, Taberner M, Grooms DR. From Control to Chaos: Visual-Cognitive Progression During Recovery from ACL Reconstruction. J Orthop Sports Phys Ther. 2024 Jul;54(7):431-439. doi: 10.2519/jospt.2024.12443. Epub 2024 Jun 4. PMID: 38832659.

  2. Grooms DR, Page SJ, Nichols-Larsen DS, Chaudhari AMW, White SE, Onate JA. Neuroplasticity associated with anterior cruciate ligament reconstruction. J Orthop Sports Phys Ther. 2017;47:180-189. https://doi.org/10.2519/ jospt.2017.7003

  3. Alli Gokeler, Alberto Grassi, Roy Hoogeslag, Albert van Houten, Tim Lehman, Caroline Bolling, Matthew Buckthorpe, Grant Norte, Anne Benjaminse, Pieter Heuvelmans, Stefano Di Paolo, Igor Tak and Francesco Della Villa

  4. Piskin, D., Benjaminse, A., Dimitrakis, P., & Gokeler, A. (2021). Neurocognitive and neurophysiological functions related to ACL injury: A framework for neurocognitive approaches in rehabilitation and return-to-sports tests. Sports Health: A Multidisciplinary Approach, 14(4), 549–555. https://doi.org/10.1177/19417381211029265

  5. Taberner M, Allen T, Cohen DD. Progressing reha bilitation after injury: consider the ‘control-chaos continuum’. Br J Sports Med. 2019;53:1132-1136. https://doi.org/10.1136/bjsports-2018-100157

文責:杉本 健剛
編集者:井出智広、後藤志帆、岸本康平、柴田大輔、千葉大聖、橋田久美子、山本あかり

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