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「自分らしさ」という呪縛から解き放たれよ

今年の夏は、特に夏らしいこともせず、それでも特に「何も出来なかったなぁ」なんて思うこともなく、貧乏暇なしと労働に精を出していた。というのは大袈裟で、生まれて初めて理不尽なことで人に怒鳴られ、それが仕事ならまだ耐えられたのだがそうではなかったので、これまた人生で初めて物申すという経験をした。これまで、育ってきた環境や日頃のものの考え方がかけ離れた人たちがいない場所に身を置いて過ごしてきたのだと思う。それが、今やそうではない環境にどこか気楽さと物珍しさで入り込んだため、その違いをまざまざと実感することとなった。気楽だと思っていたその場所は、私のずっとの居場所ではなく、またここではないどこかに、これまでのようにある程度志向やバックボーンが似通った人たちがいるような、つまりはそういった意味でのストレスがない場所に身を置かなくてはならないな、と深く思い知った。

かといって、決して後悔はない。この場所に来たからこそ知れたこともあった。凝り固まった常識に縛られて生きてきたことにも気づけたし、100人いれば100通りに近い生き方があると知れたのだから。

いつ死ぬかもわからないのだから、老後のことばかり考えてないで、いまどうしたいか、5年後どうしたいかくらいで生きていったっていい。きっと、きっとその時の自分が頑張ってくれるはずだから。そう自分を信用できるようになったんだから。

はてさて、タイトルに戻るとしよう。
タイトルは、ここ数日見かけたInstagramのストーリーズや、今日たまたま訪れた民間図書館で読んだ本に書かれていた言葉。
自分らしさという言葉の呪縛で行動が制限されるのならば、そんなのはなくていい。気にしない方がいい。目の前のことを一生懸命、誰かのためと思いながらやっていくと、自ずとそれらが「あなたらしいですね」と言われることになる、というような内容だ。

私はずっと、特に正社員で10年以上勤めていた団体を辞めてからは、私という人間がわからず、メンタルや体調を崩したこともあった。地域に貢献する団体の正社員である、というのが自分という人間を認識する代名詞だったからだ。そう気づけたのも、それこそようやくだし、メンタルや体調を崩すくらい考えたってことでもある。私という人間を認識する代名詞がなくなり、一体私は何者なのだ?という問いの解を求め続けた1年。結果、「よくわかんないけど、わかんないなら何でもいいからビビっときたものをやっていく感じで良くないか?じゃないとあっという間におばさんやぞ」という相当投げやりに聞こえる回答になったのだが、今日出会った本を読んで、少し自信が持てた。


自分自身がどういう人間か、を決めるのも自分だけど、それを探し続けることが人生でもいいじゃんか。



図書館を運営している方の本の読み方にグッと来た


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