山の日の続きの話
今年の夏こそ帰省しようと思っていたと書いたその続き。
昨日の山の日の内容はこちらをご覧ください。⬇
前回帰省したのは2019年4月。どうしても帰ってきて欲しいと母に頼まれ帰省した。
その時は帰りたくて帰ったわけではなく、父が亡くなった時に降りた死亡保険金の一部を私名義で何処かに預けていたのをどうしても解約したくて今の時代本人のサインがないとどうにも解約できないらしく、「一生のお願いだから帰ってきて」と母に頼まれたのだ。いわゆる終活ってやつだな。
そのお金は兄の口座に振り込まれた。私はサインしただけ。
実家を離れて久しいからそんなお金欲しいわけじゃないけど何故に兄貴の口座?兄の家族と母は同居しているからどうでもいい話なんだけど。でも一応交通費だけはいただいた。
結局私は子どもの頃から
「お前は出ていけ」と育てられていたから驚きもしなかった。
母と息子の絆って強いんだよね。絶対に入り込めない何かがある。
私と息子もきっとそんな感じで娘は冷ややかな目で見ているような気がする。
その後はコロナ禍で帰れてない。
母のことは嫌いだったけどもうどうでもよくなって会えるうちに会いたいと思えるようになった。そのきっかけもそのうちこのnoteに書けたらと思います。
話戻って父が亡くなった日の話。
夕飯食べたあと、父は夜の会合に出かけて行ったんだけどかなり時間が経ってから会合の人から「まだ来てないんだけど早く来るように」と電話あり、「もうとっくのとうに出かけた」と伝えたあと、何処かからまた電話があって父が事故を起こしたから現場に確認に来るように言われたみたいで母は夜中出かけていきました。
私は、何処に入院するんだろう?くらいな気持ちでいたんたけど、あの気丈な母が「お父さん死んじゃった〜」と泣き叫びながら帰ってきた。
私は車の免許取りたくてその日の朝、父に車で送ってもらって教習所に申し込んで来たばかりだった。車の中で、「車の運転て難しい?」って私が聞いたら、父は「簡単だよ」って答えてくれた。
その会話が父との最後の会話だった。
現実を受け入れる事ができないほどショックな出来事だった。それが何故に母の誕生日に起こらなければならなかったのか、何か意味があったのだろうか。
父に隣りに乗ってもらってドライブするのが私のささやかな夢だったけど、車は大破、父はもういない。一瞬でその夢は消えた。
当時東北地方の国立大学に通っていたはずの兄に電話しても全然繋がらない。結局連絡取れないままお通夜も葬儀も初七日も四十九日法要も終わった。
親の死に目に会えなかった兄はその年の年末に帰ってきて父の死を知ったのだ。
本当に私以上の親不孝者。
そんな兄は子どもの頃から優等生だったから親たちは何も心配してなかったけど、蓋をあけたら左翼的な活動をしていたのだ。
私が大学生の頃の話だからもう36年以上も昔のことだけど。
思い出してみたら
大学生活4年間の中で
父の死〜
兄の反社会的活動で迷惑被った
後輩にレイプされ棄てられ
2年付き合った彼と別れた
あまり体験できないような普通じゃない経験してるかもって思った。
根暗
(性格が暗い)
って友だちからよく言われていたけどこんなことあってもよく頑張っていたと思う。
ふだん思い出すことなんてないけど山の日になるとこんな過去を背負っての今なんだなぁとしみじみしてしまいます。
だからこそ、今は幸せを噛み締めているのかも。