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〜「じゃれっと・きむ」の 人生の備忘録 〜

『おろくとりょうじ』

リーダーシップとは何か、集団プレーとは何か、チームを纏めることの難しさを体験。今でも少しトラウマになっている出来事もありました。
「協調性」という存在の怖さを知った中学生の時期に出会った2人の恩師「おろくとりょうじ」。

🍀部活はバスケット部へ

中学に入って、部活動は直ぐに「バスケット部」と決めた。「卓球部」に入るかどうか少し迷ったけれど、小学生の頃のミニバスを中途半端にやめたこともあって、もう一度バスケットがしたかった。なので、迷いはそんなに続くことなく入部を決めることができた。

実は後に「卓球部」は全国大会へ行くのだけども、バスケット部はずっと3部リーグに留まることなど知る由もない。顧問は井上先生。あだ名は「りょうじ」。呼び捨てのあだ名だから先生を呼ぶ時に使うことがある筈も無く、メンバー間で使っていただけの呼び名だ。
「りょうじ」は社会人で県の代表選手の経験もあり、ひと言で言うとカッコいいバスケットプレイヤーだった。シュートする姿はスマートな感じと記憶している。「りょうじ」の練習はとても厳しく、確かいつも竹刀を持っていたので、ミスったらそれで頭を叩かれたし、フルコートで練習する5線とかで失敗すれば、成功するまで何往復も続けさせられるなど、本当に練習は地獄。夏なんか温室の体育館での練習だからたまらなくキツかった。

一方、女子バスケの顧問をしていたのが小禄先生。やっぱり仲間内での呼び名は「おろく」と呼び捨て。今考えると中学生って先生のことをこんな風に呼ぶよね。面白い。
たまに「おろく」が練習をみてくれる時がある。その時はメンバーは皆、ホッとした。いや、していたはず。「りょうじ」みたいに怒られることは無いからだ。「おろく」は私が3年の時の担任だったけど、とても優しい先生。「りょうじ」のことは尊敬していたし大好きだったが、最後の最後の練習の時まで、練習に来るのは「おろく」だけでと願った。

(注釈)
当時のように仲間内で呼んでいた呼び捨てでココでは書きましたけど、井上先生、小禄先生には、大変お世話になりました。井上先生には特にお世話になり、一度離れたバスケ部に戻ることを許してもらえ、ご迷惑をお掛けした中でも親身に私の指導をして頂いたことに、いまでも感謝しています。ありがとうございます。

🍀リーダーシップの勘違い

1年生の間は、体育館での練習は殆ど出来ず、いつも運動場にあるバスケットコートで1年生だけで練習をしていた。走り込みが中心。後は基本的な練習のみ。筋トレしたり、サイドとクロスのステップとキック、ドリブルシュートにランニングシュート、三角パスに四角パス、ツーメンにスリーメン、まあ基本的な練習なので、そんなに面白くはない。

私は、小学生の時に1年程度だけだがミニバスケットの経験があった。だから、初心者と比べるとアドバンテージがあり、加えてこの頃は身長が165cm(52歳の今は167cm)と背は高い方であったこともあって、いつの間にか1年生のリーダー的な役割を任されていた。

けれども私は、15人くらいの1年生メンバーを纏めることは出来なかった。当時、練習をサボるメンバーが数名いた。真面目に練習するよう注意をする私。しかし彼らの反応は「偉そうにするな!」だ。全く言う事を聞いてくれません。このようのやりとりが繰り返され悪循環に陥っていくばかり。

最終的には、1年生全体の雰囲気が悪くなってしまう。私の指示の仕方、伝え方、全てが悪かったのでしょう。上から目線的な言い方をしていたのかもしれません。結局、私は1年生の練習は全く纏めることはできませんでした。バラバラのままの状態で、その後、私は一時的に部活から離れてしまったため、放置して逃げてしまった感じになってしまい増田。

2年生の途中で復帰した時には、すでに取り纏め役は変わっており(その彼は後にキャプテンになる)、私の存在はチームからほぼ消えていました。

私が居なかった事で、チームに取ってはかえって良かった事だったんだなと、中2の私は、とても寂しく感じたことを今でも忘れません。

🍀レギュラーから外される

2年生夏頃、4ヶ月ぶりに部活に復帰した私は、途中入部扱いとされ、下っ端として過ごす事になります。チームを離れずにそのまま順調にバスケットプレイヤーとして成長していれば、それなりのところまでは行けたんじゃないかと思うけど、やんごとなきアクシデントで一旦部活を休む事になってしまったのは今でも残念に思います。

この頃は、リーダーシップを発揮する存在として自分から進んで行動しようなどと考えることは全く無く、指示に従うだけの行動をとっていた私。リーダーシップを発揮したところで、チームが良くならないことを知っているし、リーダーシップが何なのかも良く分からなかった。そんなことする勇気はなかった。今でいうトラウマ、怖かった。

3年生が引退した後、ユニフォーム渡しの儀式で、初めてもらうとこになったユニフォームの番号は17番。チーム内では3番手の交代要因がもらう番号。レギュラーどころかプレー上位の数名の後輩にも追い越された。準レギュラーにすらなれなかったのだ。悔しいという気持ちはあったが、罰だと思って、甘んじて17番を背負った。

でも不思議とその番号は気が楽だった。準レギュラーでもない3番手の交代要因。自分が悪いのだし、それから気楽に、そして愚直に練習した。元々のアドバンテージはあったし、チームも強豪校でもなく、3年最後の試合となる中体連の時にはキャプテン(4番)、副キャプテン(5番)に続いて、6番のユニフォームを貰った。この時は顔にこそ出さなかったが、流石に嬉しかった。

🍀初めて好きになった女バスの一年後輩

中学校3年間で、自分が好きになった唯一の女性は、女子バスケット部の1年後輩の子でした。今でも名前を覚えているし…。部活が終わった後、部室でダラダラしている仲間達が徐々に帰宅し、少なくなった頃、女子バスの練習から戻ってきた彼女にドキドキしながら声を掛けたのを覚えています。

確か、彼女の誕生日だったと思うのですけど、当時人気絶頂だった松田聖子の新盤LPをプレゼントしたんですよね。私も嫌いでは無かった松田聖子のレコード。彼女も好きだとリサーチしていたので…。実は、私が自分用で買ったものを大切に保存していた「パイナップル」という1982年に大ヒットしたアルバムをプレゼントすることにしました。何故、そんな自分のものをプレゼントしようと思ったのか。さっぱり分かりません。ちょっとキモいかも。

この話には後日談があります。数日後、彼女の自宅近くで落ち合った時に、プレゼントを返すと言ってきたのです。私は何がなんだか分かりません。だって誕生日プレゼントだったし…。
どうもLPレコードは当時高価な物だったので、彼女のお母さんが返しないと言われたから戻すと言ってきたんですね。当時、3,000円強のお値段だったと記憶していますが、確かに中学生にとっては高価なもの。その日以来、彼女との関係も何となく疎遠になり、良い感じになるとかもなく、付き合ってほしいと言うタイミングも無く、好きだった彼女との時間は終わっちゃいました。当時、戻された時にもらった手紙、実は今でも持っていまして、それを読むと、懐かしさと悲しさが蘇ります。

3年の中体連での最後の試合。相手は隣の中学校で当時強かった平野中学。私はスタメンで出場していましたが、弱小チームだし試合は劣勢。でもいつも練習試合で大差負けしていた相手でも、最後の試合ということもあって接戦で負けている状況。最後の試合になるとわかっている自分たちも気合いが入っていたんですね。後半も大詰め。私にフリースローのチャンスがやってきます。2投とも決めれば流れがこちらに向きそうな気配もあり、そうなれば弱小チームでも活気づきます。その時背後から「6番、ふぁいとぁ〜」と黄色い声援が聞こえます。同級生の女バスの数名だろうと、応援席をチラ見したところ、なんとそこにはあの彼女が…。

私は一気に緊張しい人に変身。
言うまでもなくガチガチの私のショットは2投とも外れ。
でも試合は、最後まで頑張りました。
良い想い出です。彼女、今頃どうしているかなぁ〜。

テーマは『おろくとりょうじ』でしたが、私の中学の頃の部活の話でした。

次回は、『高校生活①〜右肩下リの3年間の始まり〜』です🙇‍♂️

고맙습니다〜😊 
 じゃれっと・きむ🍀


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