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〜「じゃれっと・きむ」の 人生の備忘録 〜

『習い事のオンパレードの小学生時代』

広く浅い知識の習得はこの頃から。まさかゼネラリスト肌が出来た訳ではないと思うが…。チャレンジ精神の裏側にある飽きっぽさもこの時期に見えてきたことかな。

🍀教育熱心な母

私は小学2年から多くの習い事をした。習字、公文式、英会話、家庭教師、ピアノ。学習系だけでなくスポーツも。ラグビー、スイミングクラブ、バスケットボール、ソフトボール。これに加えて、こども劇場なる集団活動グループ(今もあるようだ)に参加したりしたこともある。この活動は本当に嫌だったな。妙な宗教じみた集団活動が私には合わなかった。

兎に角、母は私に多くの習い事をさせた。特に勉強系は自分の意志で始めたものは殆どなかった。。この経験、今考えるとどのような意味があったのだろうか。

確かに、それなりの成果はあった。習字では準2段まで昇級した。そのお陰で字は人並みに綺麗に書くことが出来た。今はちょっと怪しいが…。
公文式のお陰で間違いなく計算が早くなった。もちろん算数が嫌いではなくなった。むしろ好きになった。
英会話は、単なるお遊びで終わった。長続きもしなかった。唯一、自分で行きたいと言ったのがこれ。動機は不純。友達がみんな行っているから。でも中学までは英語の成績はよかったので、ちょっとは役に立ったのか。
家庭教師は中学受験を辞めたのと同時に辞めた。地元では有名な福岡教育大附属中学校。私は、地元の中学校へ行きたかったので拒否。母の目論見は叶わなかった。
ピアノもやった。妹が習うと言うので一緒に習わされのだけれど、バイエルだったかそのテキストまでやった。お恥ずかしながら発表会にも出たことがある。大きな舞台。日立ファミリーホールという土居町にあるホール。今考えるととてもそんなことを自分がやったとは思えない。極度の照れ屋さんなのにエンタメなんて。だた、ピアノをやっていたお陰で中学では音楽の成績が良かった。音楽でも5を取った。

中途半端にやった習い事も、こどもの頃はそれなりに役立っていたのだ。

一方、スポーツ。
ラグビー。4年生の時に「つくしヤングラガーズ」という地元のチームに入った。きっかけは覚えていないが、友達数人で入ったのは覚えている。練習が無茶苦茶キツくて、プログラムに付いていけない私だった。持久力が無かったので、すぐにへばった。結局、1年しか続かなかった。
スイミングクラブ。実はラグビーと同じ時期に通っていた。泳ぐのは嫌い。行きたく無かった。下大利駅の近くに出来た新しいクラブ。行き始めたきっかけは覚えてないので、母が勝手に決めたんだろう。結局これも1年程しか続かなかった。スイミングとラグビーを同年に通うなんて今考えると恐ろしい。
バスケットボール。これも4年生の後半から入った。そうか、ラグビーとスイミングとバスケットは被っていた時期がある。本当に恐ろしい。加入したのは地元小校区のミニバスケットクラブ。4年5年生と1年半程度やった。しかしこれも練習が超キツくて、バスケットはとても大好きだったんだけど6年に入った辺りで練習に行かなくなった。今でも覚えているが、コーチも厳しい方で、あいつでなければ、バスケは続けていた。
ミニバスケットボールクラブの退部をはっきり言わないまま、いつ間にか、居住校区のソフトボールクラブに練習に参加していた。バスケの練習中、体育館からいつも楽しそうに練習しているソフトボールクラブは気になっていた。たまたま町内の友人にメンバーが足らないからと誘われ、バスケットには行きたくても行けない状況もあって、いつの間にかソフトボールクラブに正式に入部していた。当時、身長が既に163cm程度あり(現在167cm)、ガタイだけは大きかった。練習参加初日にキャッチャーに指名され、試合では4番だった。

こんな感じで、有意義だったのか、そうで無かったのか、まあ、よく分からなかい習いごとオンパレードのこの頃。無理やりやらされていたことなら仕方ないけど、興味関心があることでも、粘り強く取組めない弱っちい奴だったと思う。今でもそんなところがありますね。

🍀「サボる」ということ

これだけの習い事をしていると、小学生とはいえ、自分の時間はなくなるもの。友達と遊ぶこともできず、やりたくない習い事に行くのは苦痛になるのも当たり前の小学生。恐らく、こんなに習い事をしている友達はいませんでしたから、友達と遊ぶためには、私が習い事を「サボる」しかない。

習い事の中で一番サボったのはミニバスケットボール。先ほども書いたが、バスケは嫌いではなかった。でも兎に角、練習は嫌いだった。休むと母親に怒られるので、練習時間になると家を出るのだけど、そのまま友達のところに遊びに行き、練習が終わる頃を見越して帰宅していた。ある日バスケットクラブのメンバーから、練習に来ていないという話を聞いた母。ガッツリ怒られる。

休むことはしなかったが、習字も適当だった。あれはサボりと同じ。教室に行くと少なくとも1時間は書く練習。最初はちゃんとしていたが、だんだん1時間も同じ字を書いて何になる?と思った私。ちゃちゃちゃっと半紙5枚だけ書いて、先生に見せたらさーっと逃げるように帰ってました。ものの20分程度で教室から帰って来るので、これも母に毎回叱られる始末でしたが、その都度、逃げてました。とりあえず準2段までは昇級できたので、母もよしとしたのか、徐々にギャンギャン怒られることは無くなった。

習い事って、やっているその時は「本当に嫌で仕方ないだけのもの」であるのだけど、後から考えるとありがたみを感じることばかり。当時、もうちょっと踏ん張って、習い事を続けていれば、平凡な人間で終わることもなかったかもしれない。

余談だが、「サボる」ということは、その場から逃げ出す卑怯者だと、私の胸の中に残っている。自分がそんな卑怯者だったんだからよく分かっている。でも、卑怯者という封印していた姿勢を50歳になって卑怯者の自分を再び出すことができた。仕事を辞めることが出来た。

🍀勉強は嫌いではなかった私

習い事は嫌いなものばかりでしたけど、小学5年、6年は、勉強することがとても好きになったいて時期だったと思う。この時の担任の先生が勉強を好きにさせてくれたのだけれど、毎日、遅い時間まで、授業の予習も復習もしていた。
特に社会の歴史の予習は好きだった。社会の時間では毎回先生に見せる「歴史研究ノート」があって、当該授業に関することを調べてノートにまとめる作業をしていた。国語では分からない漢字の意味調べ、百人一首を全部覚えるとかやったな。算数はドリルを解くのが楽しかった。100題かけ算では1分を切る時間で解くことに熱心だった。
この頃は、通信教育(中央出版という会社だったかな…)も受けていた。その問題集もせっせとせっせと解いていた。

実はこの頃から(高校生になる頃まで)、夜な夜なラジオを聞くのが好きになっていた。勉強もラジオを聞きながらやるのが習慣になっていた私。
当時、最も好きだったラジオ番組は「松田聖子のピンクのスニーカー」。小学生が聞くような番組ではなかったけど松田聖子が好きだったから聞いていた。ちなみに中学から高校に掛けてはKBCラジオの「ぱおーん ぼくらラジオ異星人」、そしてみんな聞いていた「オールナイトニッポン」が勉強時間のお供だった。笑福亭鶴光の日が大好きやった。

いまだに、勉強や作業をする時には、周りに音があった方が集中できる。
いま、このブログも小倉広先生のYouTubeを聴きながら書いている。

次回は『鉄道マニアの始まり』です🙇‍♂️

고맙습니다〜😊 
 じゃれっと・きむ🍀

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