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有栖川錦

段々と寒い日の割合の方が高くなって参りましたねぇ。
皆様はいかがお過ごしでしょうか。

当方、週末の家族公演が終わるまで執筆は止めようと思ってたんですが書く練習をしておきたい案件も頂けましたので急遽更新です。

カジカガエル Buergeria buergeri 


モリアオガエルやらシロマダラでも居ないかな?と思い、覗いてった塩ビパイプの中から顔を出してくれていたのはカジカガエル。

実は私、カジカガエルをしっかり見たのは生まれて初めて。
水族館なんかでは見たことありましたが・・・。

琉球列島でリュウキュウカジカガエルをたくさん見てるせいで、この「カジカガエル」が予想よりだいぶ大きくて驚いたのを今でも昨日のことのように思い出せます。


大人しかったのでマクロでも。
大きな吸盤が特徴・・・体の色模様は地味な裏腹、鳴き声は非常に可憐で美しい音を奏でてくれます。

こう見ると、ガラス玉の中に金属の歯車とかの部品を緻密に精巧に作り込んだみたいな虹彩ですねぇ。

キイトトンボ Ceriagrion melanurum


場所を移動し、田園地帯へ。
曇り空を寂しそうに眺めていたのは真っ黄色の小さなイトトンボ。


そうそう、先日関西で画家の方々とお話しする機会があったのですが興味本位で私が「写真家の私は絵を描けるもんなんですかね〜?」な〜んて伺ったら「写真を撮る人は対象物をちゃんとよく見る人たちが多い。これは絵を描くうえでは非常に重要になってくるのよ。」と笑顔でお答えをいただきました。


創作する上で、「ものをよく見る」というのは、絵画と写真は特に強く結びついてる共通点では無いでしょうか。


シマヘビ Elaphe quadrivirgata


有人コインパーキングのおばちゃんと他愛もない世間話をして彷徨くこと30分ほど。

まだまだ若いシマヘビが畑のネットに絡みついていました。

大きさはこんな感じ。

ブログでは初めて持ってる写真投稿した気がしますね。
老生個体の筋骨隆々とした感触も良いですが、このくらいの若さの個体が持つお肌のピチピチ感も乙ですなぁ〜〜。
なーんてね。笑


ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、蛇って意外と冷たくてスルスルしてるんですよ。
動物園なんかで触れ合う機会がありましたらぜひ体験してみてください(笑)

沖縄では南城市の沖縄ワールドさんにございます、ハブ博物公園が確かやってたような・・・鎌ヶ谷高校にいた時に修学旅行で他のクラスが触ってたような記憶が・・・。



話を先ほどの画家の方々との会話に戻しましょう。

私自身、視力自体は近眼ですので世間一般的に目が良い、と言えるような代物ではないのですが、よく「君は目が良いね〜」と言っていただける事が昔から多くてですね。
思い返すと、私の目はまだ文字や言葉を知らない時の小さな自分が見てる時の感覚と、今の年齢で色々なものを見てる時に子供の時の感覚と非常によく似ている感覚が出てくる事が多々あります。

 例えば千葉県鴨川市にある前原海岸の波打ち際に立ったときに見える景色。足元には砂に半分埋もれた自分の足と、粒が非常に細かい砂が煙のように、透明な波と白い泡を引き連れて静かに舞っています。
この状況で、「色」を意識してみた瞬間に、目の前の状況から自身の眼球を通し、脳に投影して「意識」をするのですが、今現在、大人になって沢山の言葉や経験で知ってきた身の上ですとその色をどうしても「文字」「言葉」で、視覚で入ってきた情報のサイズを落としてしまいます。
子供の時の感覚というのは見たその色をありのまま、自身の脳味噌にリサイズせずに直接ダウンロードしていく、そんな感覚です。

 わかりやすく言えば大人になってからの見るという感覚は「デジタル一眼レフ」で撮影した電子データ。対して子供の時の感覚のそれは「フィルムカメラ」で撮影してフィルムに焼き付いた写真。
といった具合です。
 生物相手の野外フィールドのように「見つけなきゃ危ない」という縛りがある状態での「見る」というのはデジタル一眼レフの出番ですね。
今までの「どんな生き物がどんな場所にいたか」や「学術書で得た特徴や生態」と言った過去の経験を総合して省エネで視覚を刺激します。こちらはより沢山の生き物を見つけられるようにする為の車のエンジンみたいなものです。
 散歩や人物写真の撮影の時のように言葉としてでは無く、そのままのものを「見る」というのはフィルムカメラの出番です。
こちらは自身の心情、伝えたいことなどの違う色合いの世界・・・ん〜、わかりやすく言うなら夢と同じような世界線ですね・・・をスクリーンに引き下ろして、そのフィルターを通して視覚を刺激します。これは実際に運転するための技術になってきます。

この記事で書いた「モヤモヤ」はまさしく、フィルムとして眼球を動かしていた時の、私の頭の中側の運転席から見える情景です。

人物写真の作品は、フィルムそのままではありません。無理矢理データの容量を落として簡易化しています。おそらく、絵画はここをフィルムのまま、他人が見える形で出せる芸術ですね。

 写真も絵画も人間が見れる波長の中でしか立ち回れませんのでどうしても限りがあるとお思いでしょう…その答えは否。光の波長という限り(可視光線ってやつかな?)がある中で無限の創造をするという矛盾した世界が成立してしまいます。
あくまでも私感ではございますがこれは「夢」と全く同じだと考えています。

夢か、現か、この境界線というのは視覚芸術だけが自由に往来できる物なのでしょう。


それは小学校の理科の光の単元で出てきた「虚像」「実像」とよく似ていると思います。
見てくれの仕組みではなく、あくまで概念的な物ですが。


触れない、食べれない、匂わない、聴けない・・・ただ「見る」という事だけに集中し切っている時間をどれだけ増やせるかも私自身の課題なのでしょう。


それでは皆様、ごきげんよう。
週末の家族公演も是非是非お越しください^^




お楽しみいただけましたら幸いです^^