生死感の違いなぞ。
一番最初の身近な人の死は、誰でした?
多分、祖父母を筆頭に親戚の自分より年上の人が多いんじゃないかと思うんだけど、どうだろう?
知人だと自分の父親、って言うのもいる。
松本の場合は小学5年生の同級生の男の子だった。そんなに接点があった訳でもないんだけど、幼稚園の時同じクラスだったのと、小学4年生の時に自分がたまたま行ってたやや大きめの病院で会い親同士が「白血病の為通院中」って話してたのを先に聞いてたりしたので、遠い縁だと言う訳でもなかった。
うん、吃驚するよね。10歳ちょいで、自分と同じ年の子が病気で亡くなるって言うのも。
その次に亡くなったのは父方の祖父で、まあ、これは、順番的にいっても妥当だし、祖父は松本が物心ついた時からペースメーター入れてたんだけどこれがまた、時代が時代だったから、胸にぼこっ、っと「電池入れてます!」みたいな膨らみがあり大人達が「じいちゃんは心臓に電池入れてるからねぇ」と怖ろしい事言うから、まあ、長生きしたねぇ、くらいな感じだった。
で、更にその次に亡くなったのがこれまた同級生で、確か中学校に上がる少し前の事、地元の川の堤防で生き埋めになった。これニュースにもなったし、事故後、親が市を相手取り裁判起こしちゃったので話題になった(余談だけど、どちらかと言うと明らかに親の監督不行き届きだと個人的には思ってる)。
まあ、それからも生きてる限り身近な人は亡くなって行くんだけど、自分と年齢の近い人が亡くなり過ぎた。第二次ベビーブームのピークの世代だから、そりゃ人数も多けりゃ割合的に判らなくもないけれど、兎に角、あー、人は意外と簡単に亡くなるもんだな、と。
それにプラスして、自分の親世代は更に輪を掛けて人が死ぬことが珍しくなかったもんだから、死に関しての考え方が他の人より自然任せ…。
よく新聞の記事や投稿、医療専門雑誌なんぞを読んでると、助けることが前提で、どんな状態でも良いから生きてて欲しいと言うのが大多数の考え。まあ、最近は高齢者に対して「どんな状況でも良いから生きてて貰わないと収入(年金)が…」とか言う怖ろしい話も普通にあるっぽいけど、まあそういうのは横に置いといたとしても、兎に角死なせちゃいけない、って感じがありまくりで、それもどうなんだろうな、と思う。本人が生きたいのならそりゃその生きる力に力を貸すのは有りだと思うけど。
そんな訳で、両親をどう見送るかについて色々悩む。
特に今年は流行病で病院は逼迫中。その内、現場の人々が否応なしに命の選択をする状況に陥る可能性だってある。その流行病と関係なくもしも今、我が親が倒れたら。
救急車呼ばなきゃ駄目かなぁ…。
と、本気で悩む。余談だけど、父はトイレ前で倒れてる母を見つけた時、そのまま何も考えず、布団に運んで寝かせた。その頃風邪で寝込んでた事もあったとは言え、冬でほぼ意識がなかったと言うのに、である。因みにその時母は脳梗塞で更に肺炎にもなっていた。発覚したのは、2~3日後に病院に運び込んだ時。よく死ななかったよ、母…。
そんな松本家である。長生きするのは自由だけど、ありとあらゆる延命は基本的にしないつもりである。参考までに、脳梗塞やらかした親父には既に「もしも脳死とかになったら一週間は様子見るけど、多分経済的にもそれが限界やと思うから、もし生きる気があるんだったら、一週間で帰って来ないと治療止めるから」と言い聞かせてある。何と判断力のある子であろうか!
(をい)
松本自身も未だに何故生きてるのか判らないと思いながら、死なないから生きてる、って感じ。とても判りやすい事を言うとね、生命保険の受取人がいないんだから、もし大病になったなら治療せずに死なせて欲しいと本気で思ってる。自殺しないんだから、それ位の自由は選ばせて欲しい。
安楽死問題はケースバイケースで簡単に決められる事ではないけど、治療方針くらいはもっと緩く自分で決められる世の中であって欲しい。
そうそう、自殺する場合は出来る限り原因になった人・物・事を巻き込んで行う様に。自分の命を無料で差し出しちゃ駄目だよ。出来ないのなら、考え直した方が良いよ。