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私の日本語教師歴 part2 日本語学校編

Part1から引き続き、Part2へ

やっと日本語学校の先生になりました



私の中の「日本語教師像」は、「日本語学校の先生」でした。
でも、なかなかその理想像にたどりつかず、悶々とした日々が続きました。
私が日本語学校デビューしたのは、結婚してからです。
仕事と家庭の両立も考えて、まずは非常勤から、そのうち専任へなんて考えていたのですが、ず~っと非常勤講師のまま今に至ります。(笑)
昔は、今みたいに「専任」の求人はあまりなかったし、慣れたら上司から声がかかる感じだったのですが、私の人生と専任になれるタイミングが、ことごとくあわなかったのだろうと今は考えております。

私が今まで勤務した日本語学校は、3校。

① 兵庫県の新規校


規模は大きく、他の教育事業もしていた。
学生は100%中国人  初級~上級まで教えました。
メインテキストは「みんなの日本語」
20代の一番経験のない教師でしたが、主任のやさしくおだやかでなんでも包み込む優しい雰囲気で最初の2年ほどは楽しくすごせました。手取り足取りの教案指導はありませんでしたが、わからなければいろいろ相談できる風通しの良い職場。
当時の中国人学生は、出稼ぎ目的、苦学生、お金持ちのご遊学など。
北京での1年があるので、中国人慣れしていた私ですが、また毛色の違う学生たちに、向き合い、体ごとぶつかっていった感じです。
最高週4勤務の時もありました。「〇〇の文型は、みん日の△課で習うな」とか、だいたい頭に入ってました。
❝猛獣クラス❞の猛獣使いとして、教室に立ったのも今は思い出。
3年目くらいから、上層部からいろんな専任職員が入り(教師ではなく
教務事務や進学関係)だんだん、職場の空気が変わっていきました。
臨月まで働き、出産後1年お休みして、復帰しました。
復帰して1年、すでに3月に入り、4月からの新入生のことなどもみんなで話していたにもかかわらず、「学校の規模を縮小するため、非常勤は継続雇用不可」といわれ、いきなりの解雇。もうびっくり!
校内の雰囲気も変わってきてて、やめるには潮時だったけど、困ったのが子供の保育園!早く次を探さなくては、保育園をやめさせられる!!
「なんで、もっとはやく言わへんねん!こっちは次の職場さがさなあかんのに!!」 この点、怒り心頭でした。

※今でも覚えているショッキングな出来事※

超まじめA先生が休憩時間に「もう、私無理です!」と机に突っ伏して泣き出した。猛獣クラスが手に負えなくなったらしい。10分後の授業にはもう行かないと言う。おいおい… 職員室パニック!!

② 開校間もない大阪の小規模学校

解雇通告された次の日から、ネットで求人検索開始。すでに3月も終わりのころ。ほぼ募集は終わっている。
子供もまだ小さかったので、あまり遠くまではいけない。
そんな中で、ご縁をいただいた学校でした。
学生は100%中国人 初級クラス5人 上級クラス1人
「え?大丈夫??」今までの職場と全然違う環境で戸惑いました。
始業の挨拶もちゃんとしない状態だったので、学院長に「始まり終わりはきちんとあいさつするべき、全クラス徹底しましょう。」と進言しました。
だんだん学生数も増え、学校として機能しだしました。
この学校では、担任を持ち、カリキュラム作成をし、一通り教えられるようになりました。JLPTやEJU対策もがんばりました。
日本語教師として、自信をもって教えられるようになってきたな~と思っていたころ、夫の海外赴任が決まり、退職してついていくことにしました。

※今でも覚えているショッキングな出来事※

出稼ぎ系学生B君。3か月で黒髪が白髪になった… 
いったいどんだけ働いたんだい。

③ 浦島太郎状態で復帰した日本語学校

約5年のシンガポール生活を終える直前に届いた一通のメール。
昔の同僚からで「いつ日本に帰ってくるの?」「実は来月、本帰国だよ。」と伝えると、「うちの学校で非常勤講師しない?」とお誘いが。帰ったら就職活動しなくちゃな~と思っていた私にはとってもうれしいお誘い。帰国直後は無理だと伝えると、GW明けからでOKとのことだったので、お受けしました。
そして、思いのほか居心地がいいので、ずっとお世話になっています。
来年で10年目!!

5年で日本語業界は、すっかり変わっていて…
まず、中国人よりベトナム人が増えた。 
テキストは「できる日本語」 積み上げではなく場面シラバス
だんだんICTも盛んに使用するようになってきて、ついていくのがやっと。コロナ前までは、担任もやって、かなり頑張って働きました。
月日とともに、学生の国籍が変わっていくのを経験するのもおもしろく、それぞれの国の個性もなんとなくわかるようになりました。
自分も海外生活をした経験から、より学生の気持ちに寄り添えるようになり、年齢を重ね【いいかげん】が分かるようになってきたように思います。最近は、学校以外の働き方も模索中。でも対面の良さも捨てがたい。
教師の在り方って一つじゃない。いろんなことをしながら人生を楽しみたいと考えています。

まだ、終わらない。シンガポールでのこと。コロナ以降、いろいろチャレンジしていることなど、学校以外のことをPart3にまとめます~
  


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