『反』"反”反出生主義の考え

こんなブログを拝見しました。

これについて思うことが多々あるので、noteにてまとめたいと思います。

子供が不幸を感じる→親の責任と考えていること

考えてません。子は自分の人生の責任を自分で持つものだと考えています。
親が責任を持ってくれるのであれば楽なんでしょうけど、実際問題そうはいきませんからね。幸せに生きたければ自分で責任を持って、自分で解決策を見出すしか無い。そのとおりだと思います。

だとしても、子の幸せを願うのは親として当然ですよね?最近は、それが当然じゃない親もたくさんいますが、基本生まれた我が子は愛しいものです。
幸せになって欲しいのは当然。だとすれば、子供の人生に不幸があった時のことを考えるのはおかしいことではないはず。
反出生論者は

「子が不幸になるとは考えないのかなぁ...」

と思っているだけです。反出生論と『子供が不幸を感じる→親の責任』はイコールで成り立ちません。これがひとつめの反論です。

電車の例え

筆者さんは電車の席を例えに上げていましたが、
・電車で座れないと感じる不幸
・一つの人生にかかる不幸全部
これには相当大きな差があるのではないですか?
「ちょっと迷惑かけるか」では済まないはずです。下手すりゃ自殺という絶望を持って人生を終える可能性だってあるわけです。
例えとしては不適切だと考えています。これがふたつめの反論です。

子供が将来感じるはずだった「幸せ」を奪っている

産まれてないものは『無』です。『無』である以上、マイナスにもプラスにもなりません。「幸せを奪っている」と考えているのは、貴方の頭の中で起こっている妄想、または将来の予定です。

もし、『無』から幸せを奪えるのであれば、あなたは無限大の幸せを人類から奪い取っている大悪党ってことになってしまいます。違いますよね?これがみっつめの反論です。

人類を滅亡させる権利

人類が途絶えるということは、『無』になる。ということですよね?
さきほども述べましたが『無』になった時点で悲しむものはいません
『無』を悲しんでいるのは、今存在している貴方に他なりません。
未来の人が悲しんでいるんじゃなりません。貴方が勝手に悲しんでいるんです。

「人類が存続しなければいけない」と考えるのは貴方の勝手な正義でありエゴです。そんなものを押し付けないで下さい。あなたが『無』を悲しむように私は『有』を悲しんでます。これがよっつめの反論です。

過去への冒涜

ほとんど先に同じです。過去の人間は存在していません。『無』です。
そこからあなたが何を読み取ろうが、『無』は喜びもしませんし、悲しみもしません。
「先人からの感謝の言葉」が響いているのは貴方の頭の中だけです。
周りには一切聞こえていません。

取り敢えず、
『不幸になる可能性があるのであれば、産まないほうが良い』
コレに尽きます。
多分、あなたよりも反出生主義者のほうが現実的に人類の幸せ(又は不幸じゃない道)を探っています。あなたが求めているのは、『貴方自身の幸せ』にしか過ぎません。言葉をそのままお返ししますが、これこそ最も盲目的ではないでしょうか。産まれてきた子を全員幸せにするのは無理です。数を減らし、一挙集中するという反出生主義者の考え方のほうが現実的だとおもいませんか。

以上に、反論できるのであれば、反論下さい。楽しみに待ってます。

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