春の箱船
諸行無常、盛者必衰、ゆく川の流れは絶えず、元の水であることはない。
全ては新陳代謝を繰り返す。と同時に、この世界は新陳代謝と循環を同時に行っているとも言えるだろう。
古びたもの、汚いもの、要らなくなったものはやがて土に還り、美しい花を咲かせ、いつか別の生命を成す。
(還らないものだって沢山あるが、今は見ないふりをさせて頂き)
それにしても、土に還る、って発想。
便利すぎるし、コスパが良すぎやしないか。
困ったときは何でもかんでも「土に還る」で片が付く。私も、貴方も、あの人たちも、きっといつか土に還る。だからまぁ、別にどうでもいいじゃん。
蓮は泥より出て泥に染まらず。
桜の樹の下には死体が埋まっている。
神秘だが、グロテスクでもある。
理にかなっているが、背徳的でもある。
ある種の美しさともいえるだろう。
救いでもある。
春の花弁は土に還る。
夏、青々と茂る葉は、
秋の終わりと共に枯れ落ち、土に還る。
冬。雪の下には、かつて命だったものたちが、新たな命を守るように眠っている。
蠢
という漢字を見ていると、虫が苦手な私は肌がぞわぞわしてしまう。
抑えつけられていた数多の生命がうごめきだし、堰を切るように溢れだす、春。
冬を越えたわたしたちは、新陳代謝の核だ。
私は、貴方は、日々生命を喰らい、日々優秀なシステムで細胞の断捨離を繰り返し、一瞬たりとも同じ物質ではあり得ない、流動的な生命である。
一人一人がテセウスの船であり、一人一人がテセウスでもある。
肉体。魂。脳髄。思考。意識。無意識。
考え始めれば、存在がばらばらと砕け落ちていくような感覚に陥る。
散らばった自我を掻き集め、綺麗な服を着て、人間を装って仕事をし、食事をし、平然と社会を生きている私について考え始めると、全てが絵空事のように思えてきてしまって本当にまずい。
休日、冬の終わり、公園の木々や草花を眺めて歩いていた。
ほんのり赤く色づき、大きく膨らんでいる蕾を見つけるたび、「私は生き残ってしまった」と思った。
生かされている理由は何だ。
死ななかった因果の先に一体何がある。
土に還れなかった私は。私は?
どうしようもなく滾る赤色を、どうしようもなく無駄にしたくない。どうしようもない。一体どうすればいい?
ただ、明確な理由が欲しかった。