2024/12/02 いぬ
今日の朝、実家のいぬが息を引き取った。
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近年、親しい人の葬儀が立て続いた。
葬儀告別式には、当たり前だけどたくさんの知らない人たちがいた。
その人を起点に張り巡らされたご縁で集められた人たち。
その人が生前どれだけの交流を築いてきたのかが明らかになる場所でもあるのだと感じた。
いぬの火葬が決まった。
立ち会うのは私を含む家族2名だけ。
いぬには家族しかいない(もともと人見知りだし犬見知りだったのもあり)。
この子の人生には私たちしかいなかったんだ、と突きつけられる瞬間。
今更
いぬは「死」なんて知らない。
へんに賢くなってしまった人間は、解き明かせない未知に恐怖する。
知恵を持って挑み、知識を分かち合い、対策をし、恐れを解き明かそうとする。或いは記録し、想像力を持って分析し、創作し、恐れを乗り越えようとする。
最たるものが「死」であると思う。
いぬは、きっと自分が死ぬなんて知らずに生きてきた。
人間の家族の中に迎え入れられ、閉ざされた世界、与えられた場所でただ生きてきた。
私たちとは、私とは全く異なる価値観。
中には帰ってこない家族もいた。それをどう考えていたのかは分からないけど、自分もここを去る日が来るなんて思いもしなかっただろう。家族全員とずっとずっと一緒にいられると疑いもせず生きてきたのだろう。
動物を飼うということはそういうことなんだって
今更
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ここからはいぬの思い出話
いぬはとにかくいつも元気で、活発で気が強かった。
おやつが欲しくて吠える。寂しくて気を引く。嬉しくて駆け回る。好きなおもちゃを取られたくなくて噛み付く。
眠いときは背中を預けてくれて、人間が寂しそうにしているとただそばにいてくれた。
学生時代、学校が嫌で仕方なかったとき、毎朝犬の手をとって握手してから登校していた。その温かさがお守りだった。
帰ってくれば犬が私を(もしくは私がおやつをくれるのを)待っていた。
大人になっても、就職して家を出てからも変わらず、いつでも待っていてくれることで救われていた。
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ここからはいぬの晩年の話(つらい話もある)
いぬは歳をとり、少しずつ身体が小さくなって、鳴かなくなって、歩けなく、立てなくなり、ごはんがたべられなくなった。
病院では「回復の見込みはない」と告げられていた。
ひとり暮らしをしている私も、最近はなるべく実家に帰るようにしていた。
流動食と水と薬を注射器で口から流し込み、排泄を綺麗にし、苦しそうなときはそばで声をかけた。それしかできなかった。
今朝7時前。布団の中から「あ、おしっこしてるね」という母の声を聞いた。
そのあと、母の悲鳴が聞こえた。
もしかして、そっかぁ、と頭の中はやけに冷静で、わたしも飛び起きていぬのもとへ駆け寄った。
いつものように横たわるいぬ。既に身体は冷たかったけれど、足はやわらかく動き、おなかの下にはほんの少しぬくもりを感じた。
夜が明ける前くらいだったのかな、と思う。
16歳と6ヶ月半。最期の苦しみを思うと後悔が募るけれど、本当に頑張って生き抜いてくれた。
また必ず再会できると信じて。
寂しすぎないように、さり気ない言葉で。
昨日の夜と同じ、おやすみを。