水底には、砂のお城も建設中で
昔訪れた鳥取砂丘ではラクダに唾をかけられたこともあったけど、やはり熱い砂漠のぼんやり時間をたのしみに行くんだろうな。先から中から蒸発してるんだろうって、見えない蒸気の昇華のことを考えてはきゅんとなるのだ。
いやだ。ぼやぼやしているからラクダの脛を蹴っちゃうんじゃない?
サン=テグジュペリを読んでいて、読み返すのはいつも決まって無人砂漠に降り着いた話だ。
例えば、こんなような。
「飛び立って三時間が経過したところで、突然、右手にぱっと光が点る。どうやらかなり強烈な光のようだ。僕は目を凝らす。それまで見えていなかった翼の先端のランプから、光の筋が船の航跡のように伸びている。その光の筋が明滅して、眩しく輝いたり、薄れたりしている。ということは、機体が雲の中に突入したということだ。雲にランプの光が反射しているのだ。もうすぐ地上に目印になるものが現れるはずだから、できれば晴れていて欲しかったのだが……。翼が光暈をまとって輝く。もう明滅することもなくなった光の筋が、周囲を照らし、翼の少し先のところに薔薇色の花束のような模様を描きだす。激しい乱気流に呑みこまれて、機体が揺れる。積雲を連れた風の中を飛んでいるのだ。この積雲にどれだけ厚みがあるのかは分からない。高度を二五〇〇メートルまで上げる。だが、まだ雲の外に出られない。今度は一〇〇〇メートルまで下降する。あいかわらずランプの光が雲に反射して、薔薇色の花束の模様を浮かび上がらせている。花束は揺れ動くこともなく、ますます輝きを増していく。」(『人間の大地』p.189渋谷豊訳,光文社 2015 )
目にしたものが、瞬時に他の像に重なっちゃうのはどうしてだろう。
そういえば、SNSで知った景文館書店さんという版元が、発行した御本について載せていらした。
「世界が純粋にパロディであるのは明白なことだ。つまり人が目にする事物はどれも他の事物のパロディなのである。そうでない場合、事物は同じままであって、その姿にはがっかりさせられる。」(バタイユ『太陽肛門』 酒井健訳)
そうだよね。なにかに相まみえた時には、それがことばで挨拶できない種類のものでさえ、その姿を認めるにあたってきっと、なにかを思い出してる。
状況を掴み取るのは、次の時間を生きる本能?
「事物そのもの」とか「存在そのもの」。そうした流行りの口ぶりは、口当たりなら悪くないけど、如何にいたせばまろやかに目の前の事態受け取れるっていうんだろう。
けどね、わたしは単なる光や色のトリックも好き。チカチカ無意味とされる点滅も、ただ濃淡が移り変わっていくものもね、ほら夕暮れの空の一部分を睨んでみる時とか。
ただ同じ音の響きが増殖していく音楽などの、頭をマーブル模様にしていくような怠さにももたれかかってしまう。
多くのものが、果たして「どうなっている」「ああそうか」。その仕組みが見えてしまうと、目の前塞ぐ生活仕事はどれも同じに映る気もする。
このお話は、宇宙の仕事のお話のことなんだけど、また明日とか近いうちにさせてもらうね。
高く高くに退がっていって目を眇めれば、どれであっても構わない。
結局、こなせるものはたかが知れてて、
どうにでもなる。
どうにでも。そうやって、ぼやけていったその先は、楽観だろうか。希死なのか。ゆるゆるとことばがサンドイッチを拵えたがる 意味 と 意味 その繋がりを動かなくして、時々ヒトの思考でどうにもならないものに圧しかかられたい。
例えば、水辺のイメージはわたしにとって落ち着かせてくれるもの。
そのパロディが、もしもヒトであったのなら、
反射する湖の跳ね、素早く嘴を差す水鳥が濡れずに弾く羽根のするするとした手触りに、そこから一枚拝借し、手首の内側滑らせること。眠るくらいのうっとりを髪のそよぎも邪魔をしなくて、呼吸が平らに近づくまでの時間。
そのくらい、ゆったりとしたイメージだろうな。
行ったことはなく、「いつかはきっと」と望みを託してみたい風景みたいな、人。
明滅を休みたがってる光の残党、薔薇色、みたいな色で水面をめくりあげたらいいな。
砂漠にいたのに、もうお水を考えている。
サンテックス。落っこちちゃうよ。
蛇子