うまうまの柿

正月の思い出といえば、子供の頃、道を行く車のトランクが全部開いて、中から門松が二本飛び出していたことだ。門松を見るのも初めてだったし、ましてや車のトランクからにょっきり飛び出たまま走り去る門松は初めてだった。

昨年から変わったことといえば、家に糠床を迎えたことだろうか。きゅうり、かぶ、大根、切って混ぜていると、不思議と気持ちが緩まる。
人は、糠床の前ではやさしい気持ちになるらしい。必要以上にこねくり回して愛でた野菜は、翌日には胃袋のなかで忘れ去られてしまうのだったが。
同じような気持ちを、年の瀬にも感じた。祖母の家を掃除しに行った際、近所の庭の柿の木にもうかなり熟れた実がいくつか残っていて、小鳥たちが啄んでいた。こうして鳥たちのために残すことを「木守りの柿」というそうだが、その柿を、一羽だけが近くの電線に止まったままでじっと見ている。眺めて、眺めて、他の鳥がいなくなってから十分に食べていた。
鳥のなかにも順列や仲間はずれがあるのかもしれないが、単にゆっくり食事がしたいだけかもしれない。そうであったら可愛かった。
実のなることの可愛さ、動物たちが食べる可愛さ、泉鏡花の短編『二、三羽--十二、三羽』にはそうした小鳥の姿がある。

「……いたずらものが、二、三羽、親の目を抜いて飛んで来て、チュッチュッチュッとつつき合の喧嘩さえ遣る。生意気にもかかわらず、親雀がスーッと来て叱るような顔をすると、喧嘩の嘴も、生意気な羽も、忽ちぐにゃぐにゃになって、チイチイ、赤坊声で甘ったれて、餌(うまうま)を頂戴と、口を張開いて胸毛をふわふわとして待構える。チチッ、チチッ、一人でお食べなと言っても肯かない。頬辺を横に振っても肯かない。で、チイチイチイ……おなかが空いたの。……おお、よちよち、と言った工合に、……」(岩波文庫『鏡花短編集』p.93)

祖母の家からの帰り道、ブロック塀にどこから差すのか丸い光がちらちら飛び回っていた。
「まるでつつけない実だね」と言葉を交わす。
人間が情を動かされるような光の実にも、鳥たちは目もくれず、次のうまうまを探しに寒い冬を越えるのだろうか。

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