さみしいってなんだろう
中学校、帰り道。僕の前を3人の友達が横に並んで歩いている。彼らは僕の好きなゲームの話をしていて、僕はと言うと一言も発しないまま俯いているのであった。
さみしかった。
その内に僕は帰路でもない横道に逸れて一人歩いて行くのだ。どうせ僕一人いなくなったって、君たちは気付かずに勝手に盛り上がるのでしょう?
なんて、当てつけのように一人で帰る道は案外気楽なもので、家に帰る頃にはさみしさも薄れていた。
別段、その友達と仲が悪かったなんてことは無い。
それでもそのグループにいるとさみしさを感じることはいくつもあった。
友達はいる、仲が悪いわけではない、全く話が合わないわけでもない、楽しく話せていることもある。
それでもやっぱりさみしい時はある。
思い返せばそういった時僕は、沢山の思いを心の内に閉じ込めていた。
何故、僕はここにいるのにみんなは見てくれないのか?何故、僕のこの気持ちを分かってくれないのか?
もっと沢山の言葉にならない思いが駆け巡った。
思考だけはグルグル回転し、渦巻き、そしてまた戻る。堂々巡り。
頭を回せば回すほどに伝えたい気持ちは積み上がり、周回遅れでそれを表す言葉が浮かんでくる。しかしその言葉は口に出すには既に自分の気持ちとも場の話題とも噛み合わなくて、結局飲み込むしかないのである。
そして結局僕はこのさみしさを、察してくれ、なんて一言すら言えずに時々泣いたり、時々癇癪を起したり、時々だんまりを決め込んだりして表していたのだ。
何も言えずにいた理由の一つは、そんな時自分でも、人にどうして欲しいかが解っていなかったからかもしれない。
気持ちを知っている自分ですら出せない答えを、他人が出せるなどと今更期待することも無かった。
散々解って欲しいなどと心の中で喚きながらその実、解っていないのは自分自身も同じではないのか。そう思い当ってからは、まず自分自身が自分を理解できるようになろうと心がけるようになった。
怒りや痛みを感じた時、自分の心に何が起こっているかを正確に把握しようとする。何をして欲しいのか、何を望んでいたのかを言語化する。
言葉にしてみると理由など意外としょうもない事だったり、明らかな矛盾であったりとあっけないもので、今まで自分の感情を不必要なほど複雑に捉えていたのだと気付いた。
不思議な事にそんなことを続けていると、他人が起こす拒否反応にも理由が見えてきて、巡り巡って自分もそれに対して平静を保てるようになった。
自分が感じていることを言語化出来れば、口から出すことが出来れば、会話に混ざれなかった過去の自分のようにはならない。
伝える力を少しは鍛えた僕は今、そんなにさみしくない。