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歴史なんて嫌いだ

歴史なんて嫌いだ。時々、そう思う事がある。

私の推しは歴史上の人物だ。とっくの昔にお亡くなりになっているため、ファンミーティングなどにはもちろん行けない。
推しの存在を身近に感じるためには、必然的に歴史を勉強することになる。グッズを収集するにしても歴史の知識が頭にあると有利だし、推しの心情を想像するにも当時の社会情勢を知る必要がある。ファンアートを描くのにだって知識が必要だ。

推しと出会うまでは、歴史にほとんど興味がなかった。それまで歴史は暗記科目というイメージでいまいち面白さが分からず、テストの点もそんなに良くなかった。だからこそ、推しと出会って、歴史に興味を持ちはじめて、世界がまるっきり違って見えた。国家も民族も言語も崇拝するには頼りないが、それゆえ愛おしい存在だと思うようになった。
国境線は引けても文化に明確な境界線はない。「我々は何者なのか」という問いの答えは、最終的には本人の気持ちの問題になってくる。だが、人間にとって気持ちが何より大切なのだ。

私が今のような面倒くさい性格になったのは、明らかに推しの影響が大きい。彼のおかげで、私はだいぶ色んな事を知れたと思う。だが、推しの沼に浸かれば浸かるほど…つまり、彼周辺の歴史を学べば学ぶほど、自分が嫌になってくる。

◇◇◇

先日、図書館である本を借りた。高齢者の戦争体験を聞き書きした本だ。この本には私の祖母の話も載っている。

祖母は貧しい家に生まれた。祖母の家は昔は名家だったが、世界恐慌のあおりを受け事業に失敗し、多額の借金を抱えた挙句、夜逃げ同然で越してきた。そのため、祖母はある時まで戸籍を持っておらず、義務教育を受けていない。
祖母が奉公に出されている間に戦争が始まった。家族で逃げ回っているうちに、祖母の父や義姉は目の前で敵に殺された。しかし、本人と幼い甥っ子姪っ子だけは何とか生き延びた。
戦後、祖母は甥っ子と姪っ子の面倒を見ながら生活する中で祖父と出会い、結婚し家庭を持った。子沢山で生活は貧しく、祖父との喧嘩も絶えなかったが、がむしゃらに働いてどうにか子供たちを成人させた。
それから祖母は孫の顔を何人も見て、80近くになった頃、夜間中学に通い始めた。この中学校は、戦中や戦後のどさくさで中学校に行けなかった高齢者のために、ボランティアの人たちが開いた学校だ。祖母はカリキュラムを修め(国語、数学、社会、音楽、美術…なんと体育まである!)無事に中学を卒業したようだ。

後ろのページには、しわくちゃの中学生たちがめいっぱい青春を楽しむ姿が写っていた。身体がいくら老化しても本人が中学生だと思えば中学生だし、青春だと思えば青春なのだ。
写真を眺めていると、祖母の姿を見つけた。今まで見た中で一番良い笑顔だった。

◇◇◇

祖母の聞き書きと思われるページを読み終えた後、私は彼女のタフネスさを少し尊敬した。と同時に気分が悪くなった。私が彼を推しているという事実が、改めて嫌になったのだ。祖母をはじめ、あの中学校に通っていた生徒たちとその家族。彼らが流した血と涙。積み重なった肉と骨。その上に座っていたのは…………

どうして私は彼の事が好きなのか、と自己嫌悪に陥る事がある。彼をアイドル扱いすることは、祖母のような人の痛みを矮小化する行為じゃないのか?こうやってかわいいかわいいと口にすることで、かき消される声があるんじゃないか?見えなくなるものがあるんじゃないか?彼への好意を形にすることで、私も何らかの暴力に加担しているんじゃないのか?

そんなに悩むなら推すのを辞めればいいのに…と思うかもしれないが、そう簡単にいかないから困っているのだ。彼の存在は紛れもなく心の支えだ。彼がいたおかげで今の私は救われている。そう胸を張って言える程度には彼のことが好きなのだ。


歴史を学ばなければ、祖母が辿った道のりがいかに理不尽だったか知らずにいられた。歴史を学ばなければ、彼がいかに残酷な選択をしたか知らずにいられた。歴史を学ばなければ、彼を素敵な人だと思わずにいられた。歴史を学ばなければ、この痛ましい物語を、都合の良いように喧伝する人たちの醜さに気付かずにいられた。

歴史なんて大嫌いだ。

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