空虚を埋めるのは
※勘のいい人は「推し」が誰か気付くかもしれませんが、黙っていて下さいね。筆者からのお願いです。
私は幼い頃から、空虚感を感じていたように思います。
空虚感というのは快不快で言えば不快な感覚ですが、怒りや痛みのような、刺すような不快とは違います。ただ、自分がここに立っているのが、とんでもなく奇妙なことに思え、何となく不安になり、この感覚がいつまで続くのかと怯え、どうすることも出来ず項垂れるのです。
虚しさを自覚して最初の頃、虚しいのは自分が子供だからだ、と言い聞かせていたように思います。時間が経てば、このじんわりとした不快感から逃れることができるだろう、時間が解決してくれるだろう、そう信じて眠りに着くのが習慣でした。しかし、現実は違うようでした。身体が大きくなるたびに、虚しさも広がっていきました。
最近気づいたのですが、どうやら、嘘を吐くと空虚感が増すように思います。
私は嘘つきですから、空虚さは止め処なく広がっていきます。嘘を吐くのをやめればいいじゃないか、という話ですが、私には正直なことを言う勇気がありません。正直なことを言って、余計に悪くなったらどうしよう?そんな事を想像すると、立ち尽くすしかないのです。しばらく呆然と立って、そろそろ足が痛くなってきた頃に、やはり虚しさが広がっていきます。
思えば、私は昔から嘘吐きでした。一番古い嘘の記憶は、おそらく3歳の頃です。幼い私がテレビでアニメを見ていると、ちょうど前世だか天国だかの話がやっていました。アニメによると「子供は親を選んで生まれてくる」と言っていました。当時の私にはその真偽は分かりませんでした。私は、前世の記憶や胎内記憶などが一切ない子供でした。しかし、その荒唐無稽なアニメの話に興味をそそられました。ああ面白い話を聞いた、そうだ、この話を私にして母をびっくりさせてやろう。そう思った私は、アニメのセリフを真似して言いました。
「わたしはねー、おかーさんを見ていたよ、生まれる前から」
もちろん嘘です。私の言葉で母の驚いた顔を拝めれば、すぐに訂正しようと考えていました。しかし母の反応は想像と違いました。母は驚くどころか、何か感動したかのように涙ぐんでいました。この時、今吐いた嘘が、訂正してはいけない類のものだと悟りました。
しかし、嘘を抱えるというのは不快なものです。罪悪感に耐えかねた私は、小学校に入った頃、ついに真実を暴露しました。母に、あれは嘘だったと言いました。だけど、何度言っても母は信じてくれませんでした。この時、どんなに嘘だと言っても認められない嘘があるのだと悟りました。
以来、嘘を吐いて虚しくなって、虚しさを埋めるために更なる嘘を吐いて、そんなことの繰り返しで今まで生きてきたように思います。
虚しさを埋めるために、何か趣味を持とうと思ったこともありました。絵も描きましたし、紙工作もしましたし、モデリングに挑戦した事もあります。初心者ながら、どれも中途半端に出来てしまうので、ある程度慣れてくるとまた虚しくなりました。
崇拝対象が欲しくて、ロックバンドやアイドルを推していた時期もあります。そのロックバンドは非常に演奏が上手い人達でしたが、久々の日本公演に行って目の当たりにすると、不思議と醒めていきました。演奏は相変わらず素晴らしかった筈なのに。アイドルの方はと言いますと、一番好きだったメンバーが洒落にならない事件に関係している事が発覚し、引退してしまいました。彼の場合、破滅の様子があまりに見事で感心しましたが、引退したとなっては推しようがありません。何せ、道徳的には全く尊敬できない事をやっていたようでしたから、羨望は次第に薄れていきました。
ある時、流行りのソシャゲを始めてみた事もありました。そのゲームの登場キャラに狂う友人が羨ましくて真似をしてみたのですが、数ヶ月と経たないうちに飽きてしまいました。次々と新たなイベントや新キャラが発表されていくうちに、消費の波に急かされているような気になって、物語も人物もひどく虚しいものに思えました。
虚しさを埋めるために一般的に手っ取り早いのは、人との交流でしょう。しかし、私はとてつもなく横着で臆病なので、相手の視線に耐えるだけで精一杯で、虚しさを埋めるどころではありませんでした。人の刺すような視線に耐えられずトイレに逃げ込むと、動悸が落ち着いた頃に、やはり虚しさがやってきました。私は、自分の弱さが露呈するのが恐ろしくてたまらないのです。冷静に考えると、相手が私を非難する理由は特に無いように思いますが、それでも怖いのです。これは理屈でどうなるものでもなく、動物的な恐怖です。誰もいない安全な所に避難して、息を殺して縮こまりたくなる衝動です。猛獣を目の当たりにした人は、きっとこんな気持ちなのだと思います。
そんな私を今支えているのは、私が「推し」と呼ぶあの人です。私の空虚感の大部分を埋めてくれている彼ですが、その存在は「空虚そのもの」と言っても過言ではありません。どこぞの記号学者の言葉を借りる訳ではありませんが。彼の暗い目を見れば、私の言っている事がすぐに分かるでしょうが、推しバレを避けるためにも、ここで写真をお見せできないのが残念です。空虚を埋める為に取り込んだ「推し」さえも空虚となれば、私は空虚の中に空虚を孕んだマトリョーシカに似ています。
「推し」と呼ぶあの人は魅力的な人ですが、その魅力の一つが「関連する分野の多いこと」だと思います。彼の事をもっと知りたいと思えば、歴史だけでなく宗教や思想なども勉強し、様々な視点で見る事が必要です。彼の実像に迫るには、それぐらい凝視しないといけません。そうでないと、綺麗な、もしくは悲劇的なお伽噺に呑まれていき、彼の姿がぼやけていきます。そうは言いながら、私は全く勉強不足です。彼を知ろうと思えば思うほど、自分の無知を思い知らされるばかりです。
彼のことを考えるにつれて、頭の中に「彼のレプリカ」なるものが生まれているのに気付きました。レプリカの彼が脳内を占めるスペースは、年々拡大していっているように思います。
このレプリカの彼は、まだ彼ほど博識ではないものの、性格についてはなかなか精度が高いように思います。彼に関する書籍なんかを読んでいると、レプリカの彼がいかにも言いそうな事を、史実の彼も言っていることに気付かされます。私の当面の目標は、私がもっと知識を付けることで、彼のレプリカを更に精巧にする事です。レプリカが完成した暁には、彼と色んな事を話してみたいです。
このまま、彼のことを調べていくと、最終的には彼に身体を乗っ取られるかもしれません。それも本望です。私を主語にすれば「彼に乗っ取られた」ですが、彼を主語にすれば「私に閉じ込められた」と言えるでしょう。彼の鳥籠になれればどんなに幸福でしょうか。