Nobody can ever put in someone else's shoes...
分断を産み出したい訳じゃないけど、所詮人は他人の靴は履けないなと思う今日この頃。
その人にしかわからないその人の世界がある。
その人にしかわからない事は他人にわかるはずがない。
経済的に困窮した事がない層の人たちの苦労は、経済的に困窮してばかりの人たちにはわかるはずもなく。
お前のためだよ、とお受験に追い込まれそこで感じる様々な苦痛は、そんな場所が存在している事すら知らない困窮家庭にいる人たちにはわからない。
大なり小なり人間関係で躓く事はあったとしても、圧倒的多数派の作り出す世界で少数派でいる事の苦悩は、ごく当たり前の世界を生きている、日常を生きる多数派の人々にわかるはずもない。むしろ、多数派の中でだって様々生じる問題に苦悩してるんだから、みんな同じと言われるのがオチ。
誰だって色々あるんだから…と、自分の問題が矮小化されてしまう悲劇。発達障害で苦しむ人たちが定型発達の人たちにカミングアウトした時によく体験する事だと思う。それは日常の彼方此方で地味に心を突き刺す。
もっと言うと、その人が感じる痛みはその人だけのもの。それを外野がとやかく言うなんて野暮すぎる…そして人はそんな野暮なことをついしてしまう…思いやりと共に。
何故?苦しんでいる目の前の人に元気になってもらいたいから。
悩んでいるその人を励ましたいから。
あなただけじゃないよ、1人じゃないよ、と味方がいる事を伝えたいから。
でもよくよく考えてみると、それはその人がその時感じている感情を否定する危険性がある。
そんな事言わないで(感じないで)
もっと苦しんでる人がいるよ(あなたの悩みは大したことない)
あなたのために話してるよ(私があなたが苦しいのをみるのが辛い、だから早く苦しみから抜け出して)
あーやっちゃってたわ。私。
自分が不快だから、自分が心配だから、相手の立場に立って、相手の気持ちになって、自分の気持ちは横に置いて寄り添ってあげられなかったわ。
色んな人が色んな意見を呟いているのを見ると、その人たちの背景がボンヤリでもわかった気になる。
怒ってる人には怒ってる理由がある。
嘆き悲しむ人には嘆いている理由がある。
分断を産み出したい訳じゃない。責めてる訳じゃない。この痛みの感情をわかってもらいたいだけじゃないだろうか。
みんな自分をわかって欲しい、認めて欲しい。
ルサンチマンって悪いことみたいに言われるけど、当然の感情じゃないかと思う。
色んなものを失って、色んな負の感情を味わい尽くして、毒吐いて弱音吐いて、消えたくなって、何もかも放り出して、無気力になって…それでも生きて、すぐには何も好転しなくて、それでもあきらめずに生きてまた絶望しても…
その先に見えて来る、少し明るい世界があることを今の私ならわかる…現在進行形で散々な目に遭ってる人は、渦中にいてとても信じられないし、そんな考えに及ばないだろうけど。
ひきこもれる場所があるなら、安心してひきこもっていたらいいし、それでもやらなきゃいけない事があって、気が狂いそうになりながらそれらをこなさなきゃいけなくても、泣いて泣いて恨んで泣いて…ちょっとだけ余白が生まれたらその時自分だけは自分の味方であって欲しい…。
あなたがあなたの靴をしっかり履いていてあげて。そうしたら他人の靴を自分も履けないんだって事が見えてくるかもしれないから、そしたら、もしかしたら他人のために思いを馳せられるかもしれないし、馳せられなくてもいい。
あなたの気持ちがネガティブなものだとしてもあなたにとってとても大切なもの。
大丈夫。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?