年代別の卓球大会に出場し、感じた異常性
先日、卓球の東京選手権という大会に出場した。
昨年は出場権があったものの、コロナの影響により大会が中止となったため、今年念願の初出場となった。
卓球には年代別の大会があり、東京選手権についても30代の部~90代(!)の部がある。全カテゴリーの頂点を決める全日本選手権は誰もが憧れる舞台だが、東京選手権や他年代別が用意されている大会も非常に狭き門であり、各県から代表は2名のみである。
私自身は30代の部に出場し、結果3回戦敗退。目標の成績には到達しなかったものの、年代別だからこその深みに触れることができ、清々しい気持ちで会場を後にした。
年代別に出場する選手は、とても偏っている。しかも、その状況をメタ認知していて、全員が「自分は頭がおかしい」という自負がある。
「練習の頻度は?」全員が当たり前のように練習しているのだから、そんな問いは無用である。
仕事や家庭など様々なライフステージの中、卓球にひたむきに打ち込み、ただ卓球のみで勝負する。そこには社会的な地位や家庭環境は介入の余地がない。
1回戦、利き手の関係上カメラの位置を相手のベンチ付近に設置していた。後から動画を観返した際に、ベンチ内の声が入っていたので聞き耳を立てると、3ゲーム目後の1分間の休憩の際、「なんか楽しいんだよなぁ」という対戦相手の声が入っていた。
2回戦、試合後にアドバイスを求めてもらい、試合動画を共有した。自分はYouTubeにアップロードされた動画で対策を練り、対戦相手は事前にプロコーチに対策練習を依頼していた。
3回戦、フルゲーム6-6のタイミングで、対戦相手が「楽しすぎる」とつぶやき、不敵な笑みを浮かべた。試合後に長い間感想戦をし、お互いに意見が一致した。今年こそは成績を残さないと、と耽る相手に対し、悔しさを抱えながらも、心から頑張ってほしいとエールを送った。
これらが年代別に全国大会に出場する選手の所作だ。何ともイかれた連中であるが、この環境が何とも心地よかった。
1年半前、全日本選手権に出場する為に努力し、その努力が至らず敗北した際には、しばらく立ち上がることができなかった。対戦相手は同級生で、これまで仲が良かったはずなのに、数ヵ月まともに話すことができなかったが、「これからも一生付きまとう相手なんだ」と思ったら、一緒に切磋琢磨していきたいと切り替えた。
心から相手の活躍を喜ぶことができるようになったのが勝負する人間として喜ばしいかはさておき、これが30代頃から芽生える感情なのだろうか。
今年度は安定した成績を残すことができたが、目標には到達できなかった。
来年度から職場環境が変わり、練習頻度に変化がありそうだが、その状況に適した調整で、継続して様々な大会に挑戦していきたい。