備忘録「人生のレールを外れる衝動のみつけかた」を読んで

0.この本を手に取った理由

 これまで20年以上続けている卓球に抱いている感情は何なのか、それは衝動なのだろうか。また、より偏差値の高い大学に行って、大企業に就職して、結婚して、子どもを産んで、家を構えて、、、という綺麗に思われているレールから逸れてしまっているような気もしている(それで構わないと思っている割合も高い)ので、自分自身が衝動に憑りつかれているのか。また、衝動を見つけることで、より良い人生を歩んでいきたいと思い購入。
 また、帯が私の大好きな漫画である「チ。~地球の運動について~」だったことも大きな要因。熱が伝染していく作品が、この本にまで伝染してきた。1~3は本の内容。4は総括。

1.夢中になっている人の特徴

「経験としての芸術」ジョン・デューイ(アメリカの哲学者)著
何かに夢中になっている人は、本質的な意味での「芸術」に相当する性質の経験をしていると考えた。
「球技選手の張り詰めた優雅さが見ている群衆にどう伝染するかを知っている人、あるいは、植物の手入れに夢中になっている主婦の喜び、その主婦の夫が家の前庭の手入れに対して持つ強い関心、そして、暖炉の中で燃え盛る薪を突き、はぜる炎と崩れゆく隅を見つめる人の熱意に気づく人こそが、人間経験の中にある芸術の源泉を知るだろう。」
⇒卓球の試合でも、1つ1つが芸術作品と考える。例え敗北したとしても、その試合に至るまでどれだけ準備してきたか、下手くそでも、そこに懸ける想い・熱は伝播すると考える。そういった経験を自身でしていくことで、感受性も豊かになる。

2.偏愛と衝動

(1)偏愛
衝動が具体的な活動の形をとったときの意欲につけられた名前。
誰かと共有したり、他の欲望と比較したりできるような公共性や合理性は持っていない。
偏愛はすべてに優る。どれくらい優るかというと、そのためなら世界が滅びたって構わないくらい優っている。

(2)衝動
自分のものでありながら、自分でも完全にはコントロールしきれず、それが自分を突き動かす方向に自分でも驚くこともある。これは情動の強さゆえではなく、むしろ個人性の偏りゆえ(モチベーションの強さの軸は公共的で抽象的、深さの軸は個人的で特定化)。
衝動を知る人は不思議な爽やかさがある。「世界を売り飛ばしたっていい」と言えるくらい譲れないものがはっきりしている人には、不思議な軽やかさや自由さがある。
自己の原動力たる衝動の根っこには、「究極的にはそれ以外の価値や意味なんてどうでもいい」という気分が隠れている。

(3)衝動を知るには
偏愛している具体的な活動を解釈し、適切に一般化された形でパラフレーズ(抽象化)すればよい。

3.その他コラム

(1)言語化のサンクコスト
自分で作り上げた表現や言い回し、感想の持ち方に妙に囚われてしまっている「言葉でっかち」な人を見かけることが珍しくない。
個人の細かな関心を掘り下げる言語化は、一回で完結するものではなく、何度も繰り返されて試行錯誤されるもの。

(2)それっぽい説明
周囲から期待される言葉、なんとなく素敵な響きのする表現、それっぽい説明に飛びつくのを避ける必要がある。「それっぽい説明」に留まる限り、他人の欲望や世間的な「正解」に合わせて、自分の心を切り詰めることになる。学びがないし窮屈。
それを避けるには、どこまでも具体的で細かく理解すること。「経験の前後の差分」を探れ。

4.総括

 自分自身の卓球に関する解像度の低さ。卓球の何が好きなのか。プレーそのもの、人を喜ばせること、対人競技で相手と言葉のないコミュニケーションを交わすこと、本気でぶつかり合うこと、トップレベルの戦術を見ること、緊張感のある試合で勝つ瞬間、様々あるが、今後は卓球の何が好きなのかをより個人的にしていき、それを抽象化する作業が、衝動を見つける手掛かりになりそう。

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