備忘録「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」を読んで
1.本を手に取った理由
まずはSNSで話題になっていることと、荒木博行さんがvoicyで紹介していることをTwitterにて知った。これからvoicyを聴いてみる予定。
荒木さんのvoicyでの紹介をSNSで知る⇒購読⇒voicyで聴く、というサイクルが定着しそう。
読書の機会はコロナ禍以降多くなったものの、体重が乗っからない時期もあり、その悩みを解決してくれるかもしれないと思ったため購読。
また、著者の三宅さんはほぼ同年代。自分より下の年齢の方が本を執筆されていることに刺激を受けている。「チ。ー地球の運動についてー」の作者である魚豊先生も年下だし、、、。年下の方が活躍されていると、発破をかけられているような気分になる。
2.本の内容
(1)現代人の本離れの原因は、「ノイズ」のない「情報」を得たいから
アンコントローラブルな「ノイズ」に振り回されるのではなく、コントローラブルなものに目を向ける、つまり自己啓発することが現代を生き抜く術である。
そしてその「ノイズ」抜きの知が「情報」であり、読書は「ノイズ」込みの知であるため、本離れが顕著に表れている。
(2)ノイズ性を完全に除去した情報のみで生きることはできない
人は、自分の人生から離れたところで生きている他者を人生に引き込みながら、生きていかなくてはならない。
教養とは即効性のある、実用的な情報ではない。本質的には、自分から離れたところにあるものに触れることだが、生きていくうえでそれを避けることはできないのではないか。
世界は、今の自分には関係のないノイズに溢れている。大切なのは、他者の文脈をシャットアウトしないこと。仕事のノイズになるような知識を、あえて受け入れる。仕事以外の文脈を思い出すこと。そのノイズを、受け入れること。
それこそが、私たちが働きながら本を読む一歩なのではないか。
(3)読書とは、自分から遠く離れた文脈に触れること
本の中には、私たちが欲望していることを知らない知が存在している。知は常に未知であり、私たちは「何を知りたいのか」を知らない。何を読みたいのか、私たちは分かっていない。何を欲望しているのか、私たちは分かっていない。
だからこそ本を読むと、他者の文脈に触れることができる。
この世の意識はいつかどこかで自分につながってくる。他者は自分と違う人間だが、それでも自分に影響を与えたり、あるいは自分が影響を与えたりする。
(4)働いていても本が読める状況を作るには、「半身」で働く
本が読めない状況とは、新しい文脈をつくる余裕がない、ということ。自分から離れたところにある文脈を「ノイズ」だと思ってしまい、そのノイズを頭に入れる余裕がない。自分に関係のあるものばかりを求めてしまうのは、余裕のなさゆえ。
働きながら、働くこと以外の文脈「ノイズ」を取り入れる余裕があるのが健全な社会であり、ひとつの文脈に全身でコミットメントすることを称揚する社会をやめる必要がある。
全身全霊で働けているのは、運よく環境が揃っているから。全身全霊で働くことを美化してしまったら、「全身全霊で働けないやつなんて、だめだ」と考えてしまいそうで、息苦しくなる。
3.感想
自身はそのノイズ・文脈を受け入れる耐性がある、つまり半身で働くことができているのを実感した。仕事と、卓球というシリアスレジャーが主だが、(本を振返る時間を含めた)読書時間もあり、むしろその時間がないと不健康だ、という認識もあった。
読書に向かうことができていない期間は、そのノイズを受け入れる態勢を整えることができていないためだと理解できた。あとがきに「働きながら本を読むコツ」というテクニカルなアドバイスもあったため、ノイズを受け入れられない波が来た際には実践してみたい。
また、他者の文脈を知る術としては、読書以外にもあると感じた。例えば、自分の文脈から遠いもの(趣味等)に詳しい会社の同僚にその文脈について語ってもらうとか。そうすることによって、教養が深まり、且つ自身の文脈が太く、深くなっていくのではないか。
自分とは遠い文脈を受け入れたい!という好奇心は失っていないと思うので、現状に感謝しつつ、それを維持できるよう、「半身」で生きることを意識したい。