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30年日本史01039【南北朝前期】薩埵山体制

最近歴史に詳しくなり過ぎて、ブラタモリを見ているとタモリが「歴史を全然知らない人」に見えてきました。

 直義急死という思わぬ形で兄弟抗争の決着がつき、尊氏はさっそく直義党に掌握されていた鎌倉府の体制を変革させることとしました。新たな体制は次のとおりです。
・鎌倉公方: 足利基氏(変わらず)
・関東執事兼武蔵守護: 畠山国清
・上野守護兼越後守護: 宇都宮氏綱
・相模守護: 河越直重(かわごえなおしげ)
 安房から呼び戻した実子・基氏はお咎めなしとして引き続き鎌倉公方に据え、それを東国武士である畠山・宇都宮・河越が支えるというわけです。いずれも薩埵山の戦いで功のあった者たちです。この鎌倉府の新体制を「薩埵山体制」と呼びます。
 11歳の基氏を取り巻く環境はガラリと変わったわけですが、どうやら基氏は以前の直義党に囲まれていた時代の方が居心地が良かったらしく、この後たびたび直義党っぽい動きを見せて尊氏を困らせることになります。
 一方、これまで直義を支えてきた者たちは諸国放浪の身となりました。上杉憲顕は信濃に落ち延び、桃井直常も含めたメンバーで南朝方として幕府と戦っていくこととなります。
 さて、ここで義詮が留守番を務める京に目を転じてみましょう。
 正平7(1352)年1月、まだ薩埵山の戦いの情報が京まで届いていない状況下で、義詮は尊氏が行ってきた南朝との講和交渉を続けていました。北朝が南朝に降伏するという形になっているわけですから、当然南朝方を立てなければなりませんが、北朝方の利益も確保するべく主張すべきは主張しなければなりません。
「今後は、政務や国司が管理する荘園の管理について、幕府は一切の関与を止めることにします。ただし、承久以後に新たに任ぜられた地頭の取り分、諸国の守護・地頭・御家人の所領については、引き続き幕府の処置にお任せいただきたい」
 これが義詮の言い分でしたが、まあ妥当なところでしょう。
 これに対して南朝方の公卿たちは、
「以前、直義が和睦すると言い出したが、その後すぐに変心した。今回もどうせ偽って申しているに違いない。とはいえ、まず義詮が言うことに耳を傾けておいて、我々が都に帰って、しかる後に義詮を打ち倒せばよいだろう」
などと話し合いました。南朝方は最初から幕府を信用していなかったのです。
 1月17日。洞院公賢の日記には
「京にいる公家は、吉野に挨拶に行かなければ官位昇進の希望を絶たれるらしい」
との噂が流れたとあります。せいぜい南朝の機嫌を取らねばなりません。
 2月26日には、後村上天皇が賀名生を出て、摂津住吉(大阪市住吉区)に向かいました。京を目指すために一旦腰を落ち着ける場所として選んだのでしょう。ここから南朝の京都復帰が始まります。

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