30年日本史00051【弥生】魏志倭人伝*
次なる歴史書は、魏志倭人伝です。2世紀後半から3世紀に至る倭国の状況を描いており、邪馬台国の記述があることで知られています。
著者は晋の陳寿(ちんじゅ:233~279)。3世紀に書かれたものですから、ほぼリアルタイムで書かれた歴史書ということになります。内容の細かいところはともかく、邪馬台国や卑弥呼の存在そのものは信用できそうな気がしますね。
内容を見ていきましょう。中国語で2000文字に及ぶものなので、ポイントだけ引用していきます。
「倭国は元々、男性を王としていたが、70~80年に渡って内戦状態が続いた。そこで邪馬台国の女王卑弥呼を立てたら争乱がおさまった。卑弥呼は鬼道(きどう)に長けており、年すでに長大だが、夫はおらず、弟が補佐をしている」
70~80年に渡って内戦状態ということですから、この後景初3(239)年という年号が出てくることから逆算すると、2世紀後半から3世紀前半に渡って内戦状態であったということが分かります。
「鬼道」とはおそらく宗教的な儀式のことでしょう。
「景初3(239)年に卑弥呼が魏に貢ぎ物をし、親魏倭王(しんぎわおう)の金印や銅鏡百枚を授かった」
親魏倭王の金印は未だ見つかっていません。これさえ見つかれば、邪馬台国の位置に関する論争は解決するのですが。
銅鏡百枚については論争があるので後述します。
「正始8(247)年又はその翌年ころに卑弥呼が死に、奴隷100人あまりが殉死した。男王が立ったが国が治まらず再び内戦になった。卑弥呼の一族の壱与(いよ)という13歳の女子を王に立てたところ、国が平定された」
13歳の少女が王になることで国が治まったというのが現代人からすると信じられませんね。卑弥呼の一族であるために宗教的な権威を持つことができたのかもしれません。ちなみに「晋書武帝記」には、秦始2(266)年に倭の女王が晋に使いを出した旨が書かれています。これは時期的に壱与の可能性が高いと考えられます。
さて、邪馬台国といえばその位置をめぐる論争を紹介しないわけにはいきません。
これまで提示された説は大きく分けると九州説と近畿説の2つですが、九州説と言ってもその比定地は実に多岐に渡っており、決して一枚岩ではありません。それに比べると近畿説の方は奈良県北部を主張する意見がほとんどであり、大きな差はありません。
これらの説を紹介するためにも、まずは魏志倭人伝の記述に沿って朝鮮半島から邪馬台国までの道程を追ってみることから始めましょう。