30年日本史00935【南北朝最初期】常陸合戦 親房の漂着
延元3/暦応元(1338)年9月に大湊から出航した一同が嵐に遭い、義良親王が伊勢に、結城宗広が安濃津に漂着したことを述べました。他のメンバーは一体どうなったのでしょうか。
まず、関東に向かっていた宗良親王・新田義興・北条時行は遠江国(静岡県西部)に漂着し、井伊谷(いいのや:静岡県浜松市)の豪族・井伊道政(いいみちまさ:1309~1404)のもとに身を寄せることとなりました。この後、宗良親王らは遠江、信濃、武蔵と転戦しながら足利勢と戦い続けることになるのですが、それは次章以降に詳述することになりそうです。
次に奥州に向かっていた北畠親房は、遠く常陸国(茨城県)に漂着しました。恐らく本来目指していた場所は霊山城(福島県伊達市)だったのでしょう。霊山城に入城できれば親房は安全な場所から鎌倉の足利勢と戦うための指揮を執ることができたのでしょうが、南北朝動乱の最前線である常陸国に上陸したとは何という運命の皮肉でしょう。これ以後、親房の身辺は何度も脅かされることとなります。
ここで、常陸における南北朝両陣営の中心人物を再掲しておきましょう。
【南朝方】北畠顕家、楠木正家(瓜連城)、那珂通辰(那珂城)、中村広重(熊野堂城)、広橋経泰(霊山城)、標葉清兼(標葉荘)、小田治久(小田城)、大掾高幹(水戸城)
【北朝方】斯波家長(斯波館)、佐竹貞義・義篤父子(金砂城)、相馬光胤(小高城)
南朝方と北朝方がこれほどまでに入り乱れているのは、常陸国が霊山城を拠点とする南朝方と、鎌倉を拠点とする北朝方との中間に位置しているためでしょう。
親房が上陸した場所は東条荘(茨城県稲敷市)であり、親房は東条氏の庇護を受けて神宮寺城(茨城県稲敷市)に住み始めました。ここで親房はさっそく結城親朝に書状を送り、自分の居場所を知らせるとともに
「義良親王の消息を知っているなら教えてほしい」
と述べています。結城親朝はこの頃、白河(福島県白河市)の領地を与えられた南朝方の武将であり、親房が特に気にかけていた相手のようです。
しかし親房が常陸に上陸したことは、すぐに敵方に知られることとなりました。北朝方の佐竹貞義・義篤父子からの攻撃はすばやく、10月5日に神宮寺城はあえなく落城しました。親房は阿波崎城(茨城県稲敷市)に逃れます。
しかし、神宮寺城と阿波崎城は40km程度しか離れておらず、ここも十分危険な場所でした。さらに南朝方のはずの大掾高幹が裏切りそうな気配を見せており、親房にとってはひどく緊張感を強いられる生活だったでしょう。