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30年日本史00956【南北朝初期】常陸合戦 小田城開城

これからしばらくは常陸(茨城県)の話で、親房の孤独な戦いを描いていきます。親房さん、なかなか上手く戦を進められず可哀想なんですが、どうも性格上困ったところもあって、いまいち感情移入できないんですよね。

 勢いを失った常陸の南朝方は、徐々に攻め込まれていきます。
 まず、興国2/暦応4(1341)年6月15日には小田城の背後にある宝篋山(ほうきょうさん:茨城県つくば市)を高師冬軍に奪われてしまいました。宝篋山の山頂からは小田城を見下ろすことができ、ここを奪われたことは戦略上致命的といえるでしょう。
 6月20日、北畠親房は結城親朝に書状を送り、
「師冬以下の凶徒が押し寄せて来た。今のところ城の傍で合戦は起こっていないが、坂東の安否はまさにこの戦いにかかっている。今すぐ助勢に駆け付けてほしい」
と切迫した様子を伝えていますが、それでも親朝は動きません。親朝としては、あくまで勝つ側につきたいのでしょう。親房が苦境を訴えれば訴えるほど、逆効果だったような気がしてなりません。
 結局、6月23日に小田治久が高師冬軍を見事撃退し、事なきを得ましたが、それでも昨年までの南朝方の優勢はもはや見る影もなくなっていました。征夷大将軍という称号を持った15歳の興良親王の存在は、何ら戦況を有利にはしてくれなかったようです。
 もはや勝ち目がなくなった小田治久にとって、城内の客人である興良親王と北畠親房は邪魔者になっていきました。
 10月になると、小田城内の亀裂はもはや修復不可能なところに来ました。北朝方と和睦しようという城主・小田治久と、最後まで戦おうとする北畠親房の対立が表面化したのです。
 10月23日付けで親房が結城親朝に送った書状には、
「小田城の中に異心を持つ輩が出てきた。私としては、命を懸けて先帝(後醍醐天皇)に報いたいと思っている」
と悲壮な決意が述べられています。
 11月10日、小田治久は遂に親房の反対を押し切って高師冬と和睦してしまいました。もはや南朝方に未来はないと見限ったのでしょう。和睦に反対していた北畠親房は追い出されて関城(茨城県筑西市)に、同じく興良親王と春日顕国は大宝城(茨城県下妻市)に移ることとなりました。関城は関宗祐が、大宝城は下妻政泰(しもつままさやす)が城主を務める南朝方の城です。
 その後、南朝方は関城と大宝城を拠点に戦うのですが、物量で圧倒的に勝る高師冬軍に徐々に押されていきます。関城と大宝城はともに湿地帯に北から突き出た半島のような形をしており、攻めづらいとはいえ補給も困難な場所です。常陸における南朝方はもはや風前の灯といってよいでしょう。

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