30年日本史00009【旧石器】芹沢との出会い*
さて、相澤は岩宿での大発見を誰に話すべきか、迷っていました。専門教育を受けていない者を蔑視する学者たちに話したところで、信用されるわけがありません。
昭和24(1949)年7月27日。相澤は仕事で吉祥寺に来たついでに、世田谷区赤堤(あかづつみ)にある江坂輝弥(えさかてるや:1919~2015)慶応義塾大学助手の家に寄りました。江坂と相澤はかねてからの知り合いでした。
そこで運命の出会いがありました。江坂の友人で明治大学の学生だった芹沢長介(せりざわちょうすけ:1919~2006)がたまたま江坂宅に来ていたのです。
江坂の紹介によって、相澤と芹沢はたちまち打ち解けて、語らい合いました。相澤は、この場で岩宿での発見について話すかどうか迷いました。この二人なら信頼に値するのではないか……。しかし、相澤には話せない理由がありました。というのも、桐生には千網谷戸(ちあみがやと)遺跡という縄文時代の遺跡があり、東京大学考古学教室のメンバーらが発掘作業を行っているところでした。相澤はその東大グループとは険悪な仲であり、東大グループに知られれば岩宿の発掘を妨害されることは必至でした。そして江坂が東大グループと懇意であることを、相澤は知っていたのでした。
「江坂先生に話すわけにはいかない……」
と考えた相澤は、江坂が茶を淹れるため部屋を出た際に、芹沢に小声で話しかけました。
「芹沢先生、実は面白いことがあるのですが」
「江坂君が聞いてはまずいことですか」
「はい。できれば内密にしていただきたいのです」
こうして相澤は、関東ローム層の中から石器を見つけたこと、中石器に分類されるのではないかと考えていることを、芹沢に打ち明けたのです。やがて江坂が部屋に戻ってくると、二人はこの話題をやめました。
芹沢にとって相澤の話は半信半疑でした。普通の神経なら、素人の勘違いと一笑に付してしまうところです。しかし相澤の知識と経験が相当深いものであることを見抜いた芹沢は、相澤と別れた後も、どうにも気になって仕方なくなってしまいました。
7月29日。芹沢は相澤に葉書を送りました。
「先日は失礼しました。江坂君の家で伺った半磨製石鏃(はんませいせきぞく)の資料、是非拝見いたしたいと思っております。この次の御上京の折にでも、できましたら見せて戴きたいと思います。その折、よろしかったら明大の研究室もご案内します。又、中石器の疑いある石器も、差支へなかったら拝見させてください。取り急ぎ右お願いまで」
芹沢は「半磨製石鏃」という無関係な話題について書いた上で、補足的に「中石器の疑いある石器」について触れています。それをメインの話題として触れられることを相澤が嫌がると思ったのかもしれません。
それに対する相澤の返信は、驚くべきものでした。