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30年日本史00038【縄文】動物学者エドワード・モース登場

 まずは、大森貝塚の発見者、動物学者モースを紹介することから始めたいと思います。
 エドワード・シルベスタ・モース(1838~1925)は、1838年6月18日、アメリカメイン州ポートランドに生まれました。日本では長い間「モールス」と呼ばれていたのですが、戦後に「モース」との表記が一般化し、現在教科書でもモースと表記されているので、本稿でも「モース」で統一したいと思います。
 少年期のモースは、権力への反抗心が強かったようです。長兄がチフスで死去した際、牧師から
「彼はまだ洗礼を受けていないので、地獄の業火に苦しむこととなる」
と言われたことを機に、モースの父はキリスト教を熱心に信仰するようになりました。その信仰を息子にも強制しようとしたため、モースはひどく反発し、父に対してもキリスト教に対しても強い不信を抱くようになります。このキリスト教への反発こそが、モースの学者としての立ち位置を大きく変えたと考えられます。
 モースの反抗心は学校においても遺憾なく発揮されました。小学校時代に授業を抜け出して海岸に出かけ、貝を収集していたため、放校処分を受けています。高校時代には教師に暴力を振るい、退学処分を食らっています。
 学校教育を受けられなくなったモースは、16歳で製図工として働き始めます。仕事の傍ら、趣味の貝の収集を続けていたところ、そのコレクションが有名になり、それがハーバード大学動物学教授のルイ・アガシー(1807~1873)の耳に入ります。
 1859年。19歳のモースは、アガシー教授の私設助手として雇用されることとなりました。モースはここで様々な学問に触れることとなります。アガシー教授の講義する動物学だけでなく、解剖学、地質学、発生学、化学などを受講しており、モースの関心は相当幅広かったことが窺えます。
 アガシー教授からチャンスをもらったモースでしたが、助手になった翌年にはアガシー教授との関係がひどく悪化してしまいます。
 元々、アガシー教授は熱心なクリスチャンであり、ちょうどこの頃発表されたダーウィンの進化論に猛反発していました。しかしキリスト教にそもそも信仰のないモースにとって、進化論は非常に魅力ある理論だったのです。「宗教によって学問の進歩が疎外されてはならない」と考えていたモースにとって、アガシーへの畏敬の念は徐々に揺らいでいきました。
 それに加えて、師弟の仲を決定的にした問題がありました。アガシー教授は以前から動物博物館の設立を訴えており、その計画がようやく実現しようとしていたところでした。アガシー教授は、その博物館の展示品としてモースのコレクションを否応なく押収しようとしたのです。
 1861年。モースは遂にアガシー教授のもとを去ることを決意しました。モースはエセックス研究所の研究員となり、腰を据えて研究に取り組むこととなったのです。

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