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ジョゼと虎と魚たち
“魚なような恒夫とジョゼの姿に、ジョゼは深い満足のためいきを洩らす。
恒夫はいつジョゼから去るか分からないが、傍にいる限りは幸福で、それでいいとジョゼは思う。
そしてジョゼは幸福を考えるとき、それは死と同義語に思える。
完全無欠な幸福は、死そのものだった。
(アタイたちはお魚や。「死んだモン」になった)と思うとき、ジョゼは(我々は幸福だ)といってるつもりだった。”
“ハッピーエンド”の基準って何なのだろうか。
映画の終わりにキスして、カメラはフェードアウトして、めでたしめでたし、でも、
その先が実際どんなふうに進んでいくのかなんてわからないのだ。
今この瞬間、最高にしあわせ、と思っても、
後々どんどん綻びができて、
止める間もなく、元には戻せないくらい中途半端に解けたのを見て、
嗚呼、あのとき、あのまま、最高で終わらせていたら、
あのまま離れて居たら、
綺麗な思い出の1ページとして完璧なまま終われたのでは、と思ったりするのだ。
“テルマ&ルイーズ”を観たとき、
どうやっても、結末が来た時、この映画にはモヤモヤしか残らないだろうと思っていたのだ。
最後に崖に2人で飛んでいった姿を観て、
そうか、これしかハッピーエンドはありえなかった、と、すごく腑に落ちたのを覚えている。
星の王子様だって、
きっとあそこで薔薇の星を旅立ったからこそ、
ずっと彼女が彼の中に棘を刺して、遠く離れた星でも、彼女の存在が生き続けていたに違いないのだ。
あのまま薔薇が完全に開いて、ただ目の前で一片ずつゆっくり落ちていった時、
彼には薔薇の何が残ったのだろうか。
ひとは、欲深いから、
一つ手に入ると、またひとつ欲しくなる。
ここが最高だと思うと、
この先も同じだけのことを、もっと上を、と手を伸ばしてしまう。
手から零れ落ちていった後悔を、味わわない為には終わらせ方が全て大切で、
まさに“ハッピーエンド”を探さなくてはならないのだろう。
多くを持ちたくないのだ。
何れ失うのであれば、その回数を増やしたくたい。
それに、人間が大切に出来るものなんて、
視界に今一度に映せるものくらいだ。
昔、美術の先生に、デッサンをしている時に言われた
「正しくデッサンするには、よく見ろ。見た分だけ手を動かせ。見ているより長い分は嘘しか描けない。」という言葉が、
ずっと私の中の宝物になっている。
見ていない時間の分は、見ようとしたいものしか見れない。
好意や、はたまた憎しみを重ねた、理想や願いだけで固められた像を抱えている程、虚しいことは無いと思うのだ。
人間の腕は2本しかないのである。
宮沢賢治のような価値観が憧れで、
多くを望まず、誰にも楽にも苦にもされず、
ただ目の前のものを、自分の思うように勝手に、丁寧に愛おしんで、生きていきたい。
ただ気がつくと、抱えきれない程の荷物を抱えた自分が居て、
またこれだ、と辟易したりする。
結局のところ、私は何も大切に出来ないのではないか、と、
偶に、抱えているものを全て降ろして、
何処かに去りたくなるのだ。
○月△日
今日は病棟の子とふたりで、真剣にペットボトルフリップを練習した。
コツはペットボトルの中の水を円を描くように回しながら、そのまま手首のスナップを効かせて投げることらしい。
お互いができると盛大に褒め合いながらやっていたら、他の子たちもぞろぞろ集まってきた。
ふたりして成功させて、2人して盛大に得意気にしてきた。えっへん。
△月⬜︎日
今日は黄色の靴下を履いた。1番好きな色だ。
気がつくと、服も黄色のものばかりが増えて、
大人になってこれでいいのかと思ったりもするが。
けれど、惰性で選んだ服を着るときほど、気分が乗らないことはない。
結局はTPOさえ、マナーさえ守っていれば、
私の心が1番ときめくものを身につけていたいのだ。
そうすれば駅までの道を、足取り軽く歩けるというものだ。
⬜︎月○日
今日は大好きな友だち達と、久しぶりに集まった。
2軒目に行ったレコードバーで、ガガとベネットの“cheek to cheek”のアルバムを選んで、
ガガのソロのlush lifeを流して貰ったら、
次にベネットが出している別のアルバムまでかけてくれた。
びっくりしてレコードの前に立つお兄さんを見たら、ニコッと笑いかけてくれた。
粋なサービスである。
●月▽日
職場の先輩と上司とのんでいたら、仕事の話で盛り上がりすぎてしまって終電を逃したので、
友だちの家に泊めてもらった。
酔っぱらいながらふたりで観たキテレツ大百科は、
ほのぼのとしながら、現代では怒られそうな差別的表現ばかりで笑ってしまった。
気がついたら、ふたりともずっと“お料理行進曲”を口ずさんでしまう。
次の日起きてから、ハムスターを探しに行った。
友だちにあたらしい家族が増えた。
名前は『つだ うめこ』にしたらしい。
うめちゃんに会いに行く楽しみが増えた。
▼月◇日
手紙を書いた。
ラインのように、口語での会話に近いテンポで文章を書くのは苦手だ。
あとから見返して、文章の下手さ、言葉選びの間違いに、頭を抱えたりする。
それに手紙は一方的なのがいい。
相手は居るはずなのに、そのものだけで完結しているのだ。
受け取った相手のことを思い浮かべながら、
返事の有無に関わらず、しあわせな気持ちでゆっくり過ごせるのが良い。
嗚呼、SNSなんて無い時代の方が、生きやすかったのでしょう。
家に電話して「〇〇くん居ますか?」とお母さまに取り次いで貰うドキドキも、
頭を抱えながら最後まで手紙を書き切る苦悩も、
何より愛おしいものであったと思うのです。
M•C
マイ、なんだろうか、
◆月◎日
大好きな人に会いに行った。
来日するのは7年ぶりらしい。
ずっとパワフルな彼女の声は、
いつでも私にポジティブなパワーだけをくれるのだ。
私にとってもう1人特別な人、ビョークが、
自分の見て見ぬふりをしてきたドロドロとした部分を引き出したり、はたまた隅っこに鍵をかけて仕舞った、誰にも見せたくない弱さに寄り添うのだとしたら、
彼女は“My favorite things”に違いなくて、
彼女の歌を聴くと、彼女の歌を頭に思い浮かべて口ずさむと、
自分は強くてポジティブで、鼻歌混じりに今日もやっていけそうな気がするのだ。
常に暖かな強さをくれるひと。
彼女は、7年経っても変わらずとてつもなくチャーミングで、ずっと愛に溢れていて、
彼女の歌を聴くと、涙が出そうなくらい心が震えるのに、口元が緩むのと身体が動くのをやめられなくて、
暫く、恋に落ちたばかりのような、
甘い高揚感に包まれている。
大学生最後の日に、ステージの上で口にした
「今日が人生最後の日だったらいいのに」
が忘れられないのだ。
歩みを続けたこと自体に、後悔はない。
沢山経験をした、色んな現実をみた。
選んだ道は間違いではなかったと思っている。
人生を懸けてやりたいライフワークに出会えた。
長く、緩やかに、付き合ってくれる友だちに、新たに出会えたことも、
あの時胸を貸してくれた友だちとも、未だに一緒に居られる事にも、
自分は幸せ者だと、ふとした時に思わされてばかりである。
ただ、それでもあの時を超える瞬間が来ないのだ。
一番、今だ、と思った瞬間。
表現したいことを、紛うことなく、表現できていると思った瞬間。
あの高揚感を超える事が、これから先起こり得るのだろうか。
そう思う時、機を逃してしまった、と
どうしても頭に過ぎってしまう。
しかし、過ぎてしまったことは、取り返せないのだ。
私は今日も自分の腕に抱えたものを愛しんで、
時折、去った者達と、置いてきた物事を懐かしんで、
“ハッピーエンド”が来る予兆もない、
普遍的で騒がしく、どこか歪で、
けれど憎めない日常を、
今日も駆け抜けて、
朝の微睡の中、時折丁寧に味わって、
変わらず、過ごしていくのだ。
11月10日
久しぶりにエッセイを書きあげた。
夜勤明けで仕上げたから心配だけれど、いまは読み返す気にはなれない。
何処か達成感はある気がする。
昨日は元々、久しぶりに人と会う予定だった。
予定は無くなって、
代わりに「体調不良者が出たから誰か出勤出来ませんか」と連絡が来た。
そんな日もある。
私の睡眠時間は幾許か減って、
代わりに少し稼いだのと、
中途半端だった文字の羅列が、一応形になった。
外は寒かったので、
とにかくいまは、ベッドの上で唯丸まって、毛布の柔らかな肌触りを味わっていたいのだ。
このまま、どこまでも味わっていられたらいいのに、と叶わない願いを想いながら、
昼にタイマーをセットして瞼を下ろした。