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【創作小説】魂の在処 ⑫

☆☆主人公・葵とその義兄・薫の、前世を交えての兄弟愛のお話です。はじめから読みたいという方は、こちらからどうぞ☆

☆区切りのいいとこで切りたかったので、今回すこし長いです(;'∀')
そして・・・話が重いです>< ご注意ください

           ※

――電話がかかってきてから、薫は一度もオレと目をあわそうとしなかった。
 
 十時過ぎに、七海は帰宅した。家の近くまで送り届け、ハイツに戻ってきたころには十時半過ぎていた。食器を片付け、風呂に入ってから再び葵は時計を見る。十一時半。薫はまだ帰宅していない。
 もやもやとした不可解な感情が、胸の中にぐんぐん広がってゆく。そのまま眠る気にもなれず、リビングのローテーブルにうつぶせたまま、何度も何度も時刻を確認していた。
 零時を過ぎたころ、玄関の扉が乱暴に閉じる音がして、葵はうつぶせていた顔を上げた。いつのまにか、眠ってしまっていた。軽く目をこすり、急いで立ち上がる。廊下につながるリビングの扉を開こうとしたとき。薫が部屋に入ってきた。
「……ああ、なんだ、まだ起きてたのか」
 歯切れの悪い物言い。葵のそばを通り過ぎ、デッキジャケットを羽織ったまま、ソファになだれ込んだ。
「――早乙女さんか?」
 出来るだけ、冷静な口調で葵は尋ねた。薫は目だけで葵を一瞥する。すぐさま、その視線は床に投げられた。
「おまえは、余計なこと、気にしなくていい」
 投げやりにも聞こえる薫の言葉。イラつく。出かけていった相手は、早乙女纏さおとめまといだろうと思っていた。彼女は尋常ではなかった。だから不安だった。また、あんな風に怪我を負わされないか。心配だった。いらついた。
「いいわけないだろ! あの人が、なにか変だったのはあんただって見ただろ。それに、あのときあの人が襲い掛かってきたのはオレだ。恨みがあるんなら、オレに対してだろう! なのに気にしなくていいっておかしいだろう!」
 気持ちが高ぶる。頭の線が切れてしまいそうになる。考えた言葉が、全然追いつかない。落ち着け、落ち着いて。葵は胸元をきつくつかんだ。
「そのせいで……周りに迷惑をかけたくない。おまえにだって、もう、あんな――。だから、なにかあったんならちゃんと話して欲しい。早乙女さんと、なにを話した?」
 まっすぐに薫の顔を見つめた。誠心誠意こめて、ハシバミ色の瞳に問いかけた。しかし依然と床に視線を投げたまま、薫は放心したようにソファに体を沈めている。その口が、軽く開く。
「話しても……」
「え?」
「おまえには、理解できない。いまのおまえには……関係、ない」
 関係ない? 
 体温を感じさせないその声に、神経が逆立つ。
「話してもないのに、なんで最初から決め付けるんだよ? 聞いてみなきゃ、わからないだろ!」
 目尻を吊り上げたまま、葵は吼えた。薫の切れ長の瞳が、知らない表情を見せた。感情が欠落したようなその目に、背筋がぞくりとうなる。
 ――同じ、だ。四年前の、あのときと、同じ。どうでもいいものを見るような冷たい目。
 薫は、ふらりとソファから腰をあげた。冷めた視線のまま、葵を見下ろす。
「理解できないから、できないと言っている。神楽かぐらでないおまえには、なにも理解できない」
「は?」葵は眉をきつくしかめた。神楽。また、その名を、オレに重ねるのか。
「なに言ってるんだよ? 意味のわかんねぇこと言うな! 早乙女さんはどうした?」
「だまれ!」
 その怒声に、全身が跳ねるようにびくついた。いままでそんな風に、こいつから怒鳴られたことなど、一度もなかった。冷たく見下ろす薫の細められた目を、震えながら見上げる。切れ長の瞳が、すっと色を失くす。

「……いらない。神楽でない、おまえなど必要ない」
 葵は、あらん限り目を見開く。無表情なまま口を動かす兄の顔を、殴るように睨み付けた。――かぐら。忘れたくても、忘れられないその名が、呪いのように心を引っ掻き回す。
 かぐらでないおまえなど――。
「そんなに『かぐら』って女が大事かよ……ああそうだったよな、あんた、オレをその女の身代わりにしたんだもんな!」
 声が荒ぶった。噛み付くように、薫に向けて放った。
 神楽でない、おまえは――必要ない。いらない。いらない。いらない。
 心が弾け飛んだ。
 変われると、思ったのに。積み上げたなにかが、音を立てて崩れ落ちてゆく。
「オレの気持ちなんて、どうでもいいんだろう」
 葵のその声に、白昼夢から冷めたような顔で、薫は目を見開く。そばにいた葵を見つめた。
「違う、葵――ちがう、そうじゃ、ない」
「は? なにが違うんだよ! どうでもいいんだろ、オレがなにいってもどう考えてても、そんなのどうだっていいんだろ!」
「どうでもいいなんて、思ってない!」
 葵の華奢な両肩を、薫はきつくつかんだ。その瞳をまっすぐに見つめる。蒼く大きな眼球には、うっすらと涙が覆っていた。胸を鋭いナイフで突かれたような気持ちになり、薫は眉根をきつく寄せた。
 葵はうな垂れた。いまにも、目尻から零れ落ちそうな想いをぐっと堪え、唇をかみしめる。
「あんたが――」血を吐くような思いで、言葉を吐き捨てた。
「あんたが……あんたがそう言ったんじゃねぇか。四年前も……今も」
 ほんの一瞬緩んだ薫の手を、葵は激しく振り払う。そこに、居たくなかった。居られなかった。もう、なにも、見たくない。聞きたくない。
 そのまま葵は、玄関まで走り抜けた。乱暴に扉を開き、家を飛び出した。

 行くあてもなく、ただひたすら走った。夜道を、街頭だけが照らす暗い空間を、突き動かされるまま走った。冷たい空気が体にまとわりつく。頬にあたる風が、身を切るように痛い。
 ずっとずっと、四年前の出来事が忘れられなくて、素直に接することが出来なかった。
 オレを庇って薫が怪我をしたとき、本当に怖かった。大切なものを、また、失ってしまうのではないか。心臓が止まりそうなくらい、怖かった。
 あいつが目覚めてオレに触れてくれたとき、離したくないと思った。その手を、もう二度と、離したくないって――。なのに。


   『かぐらでないおまえなど、必要ない』
 頬に、冷たいものが落ちた。弾む息のまま、宙を見上げる。いつのまにか、空は灰色に染まり、いくつもいくつも大粒の雫が降り注いできた。顔面にぶち当たる雫の全てが、自分を攻撃しているような気持ちになる。おまえには理解できない。おまえは必要ない。
 変われたと思った。すこし、近づくことが出来たと思った。だけど、なにも、変わってなかった。
 頬を伝う雫が、空から降ってきたものなのか。それとも自分が流したものなのかさえ、もうわからない。
 ぼんやりと足を運ぶ。気づくと川辺にある大きな公園に足を踏み入れていた。人気のない深夜の公園に、雨が地面を叩く音だけが響く。ふいに、ぬかるみに足を取られ、重心を失って派手に転んだ。ついた両手がじんじんと痛む。うな垂れたまま、葵は肩を激しく震わせた。


御巫みかなぎくん?」
 聞き覚えのある静かな口調に、葵はくしゃくしゃに歪んだ顔を上げた。
 そこに、傘を差し、ひどく驚いた顔の稲野辺光が立っていた。
「こんな時間に、どうされましたか? もしかして、またなにか」
 傘を葵の頭に掲げるようにして、稲野辺は葵の正面に膝を折る。スーツジャケットのポケットからハンカチを取り出し、泥で汚れていた葵の頬をやさしく拭った。
 その瞳に、暖かいなにかを感じた。身内のような、兄のような暖かいなにか。兄の、ような。たまらず、口から言葉が洪水のようにあふれ出る。
「……嫌い、じゃない。そうじゃないんだ。あいつの考えてることが、わからない。突然、いつも、突き放される。いらないって……どっちが、どっちが本当のあいつなのか、わからない。やっと、少し……近づけたと、思ったのに――」
 ――また、壊れて、しまった。
 傘を掲げる稲野辺の腕に強くしがみつく。重みで、稲野辺の腕が大きく傾く。その手から傘がはらりと落ち、雨水がたまった地面にピシャと音を立てて転がった。どうして、いいのかわからなかった。気が狂いそうで怖かった。
「御巫くん、このままでは風邪を引いてしまいます。とりあえず僕の」稲野辺が葵の肩をそっと支えた。とたんに、葵の体がぐらりと重心を失った。そのまま、稲野辺のほうへ倒れこむ。慌てて、ずぶぬれになった体を支えた。
「御巫くん? しっかり! 御巫くん」
 稲野辺の呼びかけにこたえることなく、葵は意識を手放してしまっていた。

 雨は、依然として降り続いている。稲野辺は、ほんの少し悩んだ。なにかを吹っ切ったように葵を背負うと、公園のそばにある駐車場へと急いだ。
 学会に出席して、ずいぶんと遅くなってしまった。まともに道を歩くよりも、公園を突っ切ったほうが近道になる。そう思ってここを歩いていた。背中にのしかかる重みを感じながら、稲野辺は苦渋の色を浮かべた。
 今、この子を家に届けるのは、事態をもっと悪化させてしまうかもしれない。このまま放っておくことなど出来ない。とりあえずは――。
 ずぶぬれになった葵の体を、静かに助手席に座らせた。濡れた服が、あっと言う間に座席を湿らせた。おかまいなしにシートを少し倒し、葵が変に倒れたりしないようにシートベルトをしっかりとかけた。ハンカチで、葵の顔周りと髪を軽く拭いてやる。
 そのときだった。
 葵の名を呼ぶ男の声が耳に届く。
 稲野辺は葵から視線をはずし、振り返った。降りしきる雨の中、傘も差さずに、あたりを見回す薫の姿が視界にはいる。
 「彼」にはもう、渡せない。見たくない。あんな風に泣くこの人を。
 助手席の扉を静かに閉めると、稲野辺は運転席に腰を下ろした。気づき、駆け寄ってくる薫を無視したまま、稲野辺はアクセルを踏んだ。

             ※

 気づくと見知らぬ天井があった。
すっきりしない頭で、首だけで辺りを見まわす。六畳ほどの広さの和室に、自分は横たわっている。かけられている布団のシーツから、ほんのりと香のにおいがした。足元から淡い光が差し込んでいる。見ると、障子扉から透けた光が横たわっている自分の腰下までかかっていた。
 どこだろう、ここは。どうして、こんなところに――。そう思いながら、じわじわと上体を起こす。なんだろう、ひどく頭が重い。ふわふわしている。
 廊下をぎしぎしと歩く音が響き、障子扉に歩く人影が写った。扉が開き、稲野辺光が顔を覗かせた。身を起こしている葵を見て、軽く口を開く。すぐさま、大きく顔をほころばせた。
「御巫くん、よかった。気分はどうですか?」
 後手に障子を閉め、稲野辺は葵のすぐ傍で膝をつき、正座をした。骨ばった大きな手が、葵の額に触れる。
「よかった。だいぶ、熱は下がったみたいですね。あれだけ雨に打たれては熱だって出ます。それに、御巫くんは喘息をお持ちだったと聞いていたので、大丈夫なのかとひやひやしました。よかった」
 雨……。なんだか、記憶が混沌としていた。
 稲野辺の大きな手が、紺色の浴衣を身につけた葵の肩にやさしく触れる。軽く顔を覗くように、その横顔を見つめた。
「また、お兄様となにか、ありましたか?」
 どこか懐かしさと安堵を感じさせるその声に、顔を上げた。

 かぐらでないおまえなど、必要ない。
 言葉が沸いただけで、眼球が潤んだ。苦しい。ひどく、苦しかった。大きな瞳を揺らし、稲野辺にすがった。
「先生……、怖いんです」
「なにが、ですか?」
 瞳を閉じて、唇を噛み締める。
「兄と、向き合うのが怖いんです」
 少しの間、稲野辺は沈黙した。骨ばった大きな手が、葵の後頭部を気遣うように撫でた。
「いままでどおり、どんなことでも聞きますよ。差し支えなければ、話してくださいませんか?」
 稲野辺の顔を見上げた。黒縁眼鏡の奥の瞳は、柔らかく受け止めてくれていた。
「……こんなふうにこじれてしまうきっかけになったのは、四年前にあったことなんです。その日から薫は、時々おかしくなる。それが、怖くて仕方ないんです」
 稲野辺は、葵の黒髪をやさしく撫でると、満面の笑みを浮かべて笑った。
「なにがあったのですか?」
「薫は、とても優しい兄でした。少なくとも、あの日までは、心から信頼し、尊敬していました」
 葵は、ぽつりぽつりと言葉を繋ぎはじめた。

           ※

 あれは、十三歳になったばかりのときだったと思う。五月の大型連休のときだった。父が遠方の親戚の家へ仏事を行うため、一週間ほど泊まりで家をあけることになった。
 薫はM市の鳥手とりで大学に通うために、実家であるH市を離れて一人暮らしを始めていた。
 義母は、オレが御巫の家に迎えられたときにはすでに他界していて、一週間もひとりになってしまうオレを心配した父は、薫のところへ行ってはどうかと持ちかけてきて。
 ひとりでいるのは全然問題なかった。だけど、月に二度くらいしか会えなくなっていた薫のところに行けるのならと、喜んで受け入れた。

           ◆

「なに、単位落としたって、マジかよ?」
「おい、そんな大きな声で言うな。恥ずかしいだろ」
 中華料理の店で餃子を突きながら、薫はすこし眉をひそめた。
「だってあんた、いつも学年一とか二位とかだっただろ。単位落として留年とか……想像できない」
「現実にそうなってしまったんだから、仕方ない」
 ラーメン定食についていた味の濃いスープをすすりながら、薫は自分に言い聞かせるように呟いた。
「仕方ないって……父さんには話したの?」
「もちろん。少なくとも後一年は帰れませんって言ったら、そのまま電話切られた」
 顔をしかめながら、薫は苦笑いした。
「少なくとも……って、一年でちゃんと卒業しろよ」
「わかってる。がんばるよ、今度は」
「最初からがんばれよ」
 軽く受け流す薫の額を、軽く小突く。弾かれた額をさすりながら、薫はちらりと腕時計に目をやった。
「一時半か。そうだ、葵。久しぶりに人口島まで足伸ばそうか」
 その一言で、急激にテンションが上がった。
「人口島! 行く行く!」
 店を出てからまっすぐ専用駐車場まで足を運ぶ。
「なんか、テラくん見るのも久しぶりな気がする」
 いつ見ても、ピカピカに磨き上げられている青いエンジンタンクに、太陽の光が反射してまぶしい。
「ははは、そりゃそうだ。俺がまえに家戻ったのって、たしか一年くらい前か?」
 うん。そうだよ。少し声が低くなる。
「一年も帰ってこないから、そのぶんしっかりと勉学に励んでるのかと思ってたのに、信じられない」
 手渡されたヘルメットをかぶり、バイクの後部座席にちょこんと腰を下ろす。
「おまえ、また黒歴史を蒸し返すわけ? 小姑かよ、怖い怖い」
 薫もまたヘルメットをかぶり、バイクにまたがった。
「小姑って、そういう場面で使うものじゃないと思うんだけど」
 薫は軽く笑いながら、アクセルをふかした。
「しっかりつかまってろ」
 うなずきながら、薫の腰に両腕を回した。

 人口島というのは、近隣にある埋立地のことだ。住宅街などは一切ない工場地帯になっている。島に到着すると、薫は工場地帯を二分化している大きな通りをまっすぐに突っ切り、大型駐車場に向かった。端から端まで続く長い防波堤の手前にバイクを停めると、二人して防波堤の上によじ登る。
 体にぶつかる潮風の心地よさ。海の匂い。午後のあたたかい日差しの中。とても満ち足りた気持ちで、その場の空気に身を任せていた。
「――雰囲気、変わったね」
 突然、薫が呟いた。
「なに?」
「いや、なんというか、一年見ない間に、ずいぶんと大人びた顔になった。益々、美人になった」そう言って薫は、どこか寂しげに笑った。
「美人とか、言うな。それに、この時期の子供は著しく変わるんだ。成長期だしね」
 海のほうに垂らしていた足を抱え、両腕で抱く。
「でも、背はほとんど伸びてないっしょ」
「うるさい。まだ十三だ。いまからぐんぐん伸びるんだって」
 薫は背も高い。百八十くらいはありそうだ。オレはというと、その肩くらいまでしかない。
「それだけ美人だとモテるだろう、葵」
「おまえと違ってまったくモテないし」
「えー、なんだよ、みんな……見る目がないなぁ。撫で撫でしたくなるくらい、可愛いのになぁ」
 薫は、オレの髪をくちゃくちゃとかき回す。
「うるさい。可愛い、可愛いって連呼するな」
 拳骨で小突いてやろうと、右手を上げかけて――息をのむ。
 薫はもう、オレを見てはいなかった。目の前に広がる青々とした水面を、ただぼんやりと眺めていた。
 その横顔が、いつもと違ってとても寂しげに見えて。それ以上、ふざけることが出来なかった。膝を抱えていた両腕に力をこめ、海の向こうに見える離れ島を眺める。
 単位を落としたこと、落ち込んでいるのだろうか。なにか、あったのだろうか。学業に専念できなくなるようななにかが。
 気になった。聞けば、話してくれるだろうか。いや、聞いたところで、たかが十三の自分にいったいなにが出来るというのだ。役にたちたい。力になりたい。だけど、自分はあまりにも子供で、無力で。
「風が冷たくなってきたな。そろそろ戻ろうか」 
 空が次第に茜色に染まってきたころ。薫がぽつりと呟いた。

               ◆

 その日、薫はバイトで遅くなると、家を出るまえに告げた。
 きっと腹を減らせて帰ってくるだろう。そう思い、冷蔵庫にあるものでチャーハンを作り、帰りを待った。
 深夜一時を回っても、薫は戻らない。いくらバイトで遅くなるとはいえ、こんな時間にはならないだろう。仕事が終わったあと、呑みにでも行ったのか。いや、それなら連絡くらいしてくるはずだし、あいつはそもそもバイク通勤している。
 不安が胸をよぎった。やっぱり留年したことがショックで、それで自暴自棄になって友達と飲み歩いて? まさか、飲酒運転して、事故――った、とか?
 首を激しく左右に振った。
 心臓が、バクバクと大きな音を立てた。その鼓動が、耳でも聞き取れるくらいに激しくなってゆく。
 どうしよう。本当に、なにか、あったんじゃ――。
 どんどん思考が悪い方向へ向かい始めたとき。玄関の扉が、歪な音を立てて開いた。
 鉄砲玉のようにリビングから飛び出し、玄関口へと走った。
 ほんのりと赤い顔をした薫が、玄関口に座り込んでいた。慌ててそばにしゃがむ。酒臭い。やっぱり、呑みにいっていたのか。
「ああ――葵、ただいまぁ。遅くなるって言っただろう? 寝てて、よかった、のに」
 肩をかして立たせると、薫は靴を脱ぎ捨てたまま、部屋の中へけたたましい足音を立てて入ってゆく。足取りが少しふらついていた。
「みずー、みず、くれー、葵」
 呂律の回らない口調で、薫が言う。羽織っていたデッキジャケットを脱ぎ、リビング隅のソファにごろりと横たわった。
「あーもう……なんなんだよ」 
 いらついた。わざと派手に足音を立てて、キッチンへ向かう。
 ――無事でよかった。なにごともなく、ちゃんと帰ってきてくれた。よかった。安堵した。同時に、腹の底から沸々と怒りが沸いた。
 ガラスのコップを握りつぶしたくなる気持ちで、水をいっぱいまで注ぐ。寝そべっている薫に愛想なく突き出した。
「さんきゅー、あおいちゃん」
「気持ち悪い呼び方すんな」
「あーごめん、ごめん、わりぃわりぃ、そんなに怒るなって」
 ふざけたような物言いが、神経を逆撫でした。いらつく。むかむかする。
「……テラくんは、どうした?」
「ああ、友達んちに置いて、きた。いくらなんでも、飲酒は、ヤバイっしょ……」
 何事もないような口調で、薫はさらりと言ってのけた。
 むかついた。

 バイクで出かけているから、救急車の音にどきどきする。留年のことで、落ち込んでいるように思えた。いくらなんでも予想外に遅い時間まで帰ってこなかった。
 それがどれだけ不安だったか。
「……ざけんなよ」
 いい加減にしろ。大人なら、心配させないように、電話の一本くらいちゃんと入れろ。
 悔しくて、どうしようもなくて、気づくと目から気持ちが溢れだしていた。
 ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう。薫の前でぺたりと座り込んだまま、うな垂れた。
 ――また、失うんじゃないかと、思った。
 大好きになったのに、また、なにもかも失うんじゃないかと思った。
 もう、いやだ。あんなのは、二度と、嫌だ。
 ――嫌、だ。

 突然黙り込んだオレの顔を、薫は覗き込んだ。床にぽたぽたと落ちる水滴に気づく。とたんに、心もとない顔に一変した。
「葵? どうした?」
「うるせぇ、バカ。もう、帰ってくんな!」
 頬に伸びてきた手を、力いっぱいに払いのけた。
「……もう、帰って、来ないんじゃねぇかと、思った」
 力なく、そう呟く。ほぼ同時だった。ものすごい力で、抱きしめられて面食らう。背骨が折れてしまいそうなくらいに、激しく強い力だった。
「ふざけんなよ、こんなことで、ごまかすな! オレが、どれだけ――」
 言い終わらないうちに、薫の腕がオレの両肩をきつくつかんだ。そのまま、後ろへと押し倒された。視界がぐらりと揺れる。天井が見えて――すぐそこに、薫の顔。なにを考えてるのかわからない複雑な表情で、オレを見下ろしている。
 冷めた瞳。心をどこかに置き忘れてきたような、色のない瞳。
 その顔が、ゆっくりと近づいてきて――唇に、かるく触れた。
「――っ、ふざけんな! いい加減にしろ!」
 覆いかぶさるような格好でオレを見ていた薫の腹を、おもいっきり蹴飛ばす。薫は小さく呻きながらよろめき、後方へとしりもちをついた。その隙に、その場から逃げようと立ち上がった。
 薫の腕が、再びオレの右肩をひっつかむ。そのまま床に叩きつけられた。薫はオレの体の上に馬乗りになった。その目つきに、おもわず正気を疑う。
 なにを見ているのかわからない瞳。苦しそうで、辛そうにもみえる複雑な顔。いままでに見たことのない、薫の顔。
 はじめてこいつを、怖いと感じた。
「か――」声にならない声が、口元からこぼれる。そのとき。
 薫が消えそうな頼りない声で、呟いた。
「……か、ぐら」
「は? ふざけんな! 目ぇ覚ませよ、この酔っ払い! オレは葵だ」
 力の限り、両腕を突っぱねた。薫の大きな手は、いともたやすく暴れていたオレの両腕を捕まえた。そのまま、頭上で押さえつけられ、身動きできなくなる。必死で暴れた。抵抗した。
 冷たい視線だった。どうでもいいものを見るときの、冷めた瞳だった。
 手首をつかんだ薫の手に、さらに力がこもる。その顔が、再び近づく。唇に、触れた。
今度はさっきよりもずっと強く。
 薫は自分が身につけていたネクタイをするりとはずした。そしてすばやくオレの両手首をそれでがっつりと縛った。
 なにかんがえてるんだ? どうしてこんなことする?
 わからない、わからない、わからない、信じられない、どうして。
 怖くて、ただひたすら怖くて、力の限り暴言を吐き続けた。縛られた両腕を、何度も薫に向かって振りかざした。
 暴れる自分の両腕が、薫の頬を殴りつけた。頭を突いた。それでも薫は、冷ややかな視線でオレを見下ろしている。頭をきつく押さえ込まれ、何度も何度も、唇を重ねてきた。

「かぐら……」
 再びその名が、薫の口から甘い色を乗せて零れ落ちた。
 ――それはきっと、薫が想いを寄せている相手なのだろう。こいつは、その人とオレを勘違いしている。酔っ払ってて、きっとなにがなんだかわからなくなってる。
 突然、おなかに感じたひどく冷たい感触に体がびくついた。
 薫の手が、身につけていたパーカーの裾から忍び込んでくる。
 凍りつく。触れられた場所から這い上がってくる、どうしようもない恐怖。冷たい手。マネキンみたいな冷たいその手に、全身がぞわっと総毛だった。
 とたん。
 気が狂ったように荒ぶっていた心が、ぷつん、と切れた。
 突然、おとなしくなったオレを、ほんの一瞬、うかがうように薫は見た。その先のことは、よく覚えていない。
 ひどくきついお酒の匂い。薫のざらざらした冷たい手が、冷たい唇が、何度も何度も体に触れる感触。
 ――かぐら。
 誰かの、オレの知らない誰かの名を呼ぶ低い声だけが、ずっとずっと、耳元で意思を宿していた。

               ◆


 ――謝ってくれる。昨日は悪かった。どうしようもなく酔っていて、なにがなんだか覚えていない。そんな言葉を、オレは期待していた。
 薫は、オレが御巫の家にきてからずっと大事に接してくれていた。あんなことをするなんて、正気なはずがない。どうしても薫のした行為が信じられなくて、正気だとは思えなくて――いや、思いたくなかった。きっと、謝ってくれる。そう、信じていた。
 目覚めてからリビングに足を踏み入れると、リズミカルな包丁の音が耳に飛び込んできた。
 薫はキッチンでなにかを作っていた。とん、とん、とん。小気味よいリズムで、包丁を握る腕が動いている。気づき、こちらを振り返った。
「おはよう」
 なにごともなかったように、薄い笑みを浮かべる。
 オレは、とても怒っていた。吐きそうなくらい、ひどく怒っていた。振り返った薫を意識して睨む。
 薫は信じられないくらいに平常だった。いつもと同じ。いや、いつもよりもずっと冷めている。昨夜、見たときと同じ。いままでに見たことのない顔。オレの知らない薫の顔。
「もう少し待ってくれる? 後、キャベツ刻んでサラダを作るだけだから」
 そうとだけ告げると、また手元に視線を戻す。マヨネーズのにおいが、つんと鼻をついた。
「……なんで、だよ」
 口から呪いを吐くように言葉が漏れた。
「なんで、あんなことしたんだよ?」
 酔っ払っていたのはわかってる。誰かと間違えて、混乱していて、あんなことをしたのはわかってる。だけど。一言なにか、言って欲しかった。
 『昨日はごめん。悪かった』

 キャベツを刻む薫の手が、止まった。ゆらりと葵に向き直った。
「どうしてって、なにが?」
「なにが、って――だから、『かぐら』って誰だよ?」
 その名を口にしたとたん、薫の顔がほんのすこし硬直した気がした。
「あんた、そいつとオレを間違えたんだろう? 信じられねぇ、いくら酔ってるからって、男と女、見間違えるとかありえねぇだろ」
 ありえない。そう、ありえない。だから、お願い。
 一言でいいから。
 聞かせて。
 『昨日は、ごめん。悪かった』

「いらいらしてたんだよ……女と喧嘩して。まさか、その辺歩いてる女に手を出すわけにはいかないだろう」
 薫は表情を少しも変えることなく、冷たく言い放った。背筋が、ぞくっと硬直する。
 だから?
 だから、オレ、に?
「誰でもいいから、憂さ晴らしがしたかっただけだ」
 その言葉が、すべてを凍りつかせた。
「ふざけんなよ! 男のオレなら傷つかないとでも思ったのか? オレになら、なにしてもいいって思ったのかよ?」
 最後の力を振り絞り、薫を見た。


 ――お願い。どうか、お願い。
 答えて。突き放さないで。


 薫は伏し目がちにまな板の上のキャベツをじっと見ていた。オレを見ない。見ようともしない。
 その唇が、静かに冷たく動いた。
「――ああ、そうだよ」
 鈍器で頭を殴られた気がした。言葉はもう、なにも出てこない。そのまま、逃げるように眠っていた部屋へと駆け込んだ。
 もうなにも聞きたくなかった。聞く気力もなかった。
 ただ、何度も心の中で繰り返した。


 大好きだったのに。信頼していたのに。
 どうして、どうして。どうして――。

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アマガイ エコ
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