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【オッペンハイマー】日本語字幕批評:ラストのセリフ
オッペンハイマーの最後のセリフに関して、石田泰子氏の日本語字幕を批評します。
ネタバレになるので映画を観てない人は読まないでください。
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▼文脈からのアプローチ:
セリフ原文:I believe we did.
直訳:私達はそれをした、と私は信じています。
字幕:我々は破壊した。
まず字幕では「I believe」の部分をゴッソリ削除していますが、これは「私は〜だと信じている」という、言っても言わなくても意味が変わらない部分(脚注*1)なので、削除してOKだと思います。
次に「we did」の部分ですが、たしかにdidは直前に出てきた単語destroyの言い換えだとも解釈できるので、直訳すると字幕の「我々は破壊した」は正しいです。
ただし、日本語話者の感覚だと、この《我々》って誰なの?という感じが残るというか、実際にはweとはロスアラモスの研究者チームやアメリカ政府をひっくるめた関係者全員のことを指してるんですが、日本語だとこうしてweを持ってきて主語を明確にするのは馴染みがない文法なので難解になります(日本人はweが誰なのか考えるクセがついてない)し、わざわざweまで言及したにもかかわらず《何を》破壊したのかを言わないのが片手落ちに見えるので、トータルでは日本語として不自然に感じます。
ここで直前のセリフをもう一度見ますと、オッペンハイマーはこう言ってます。
Albert? When I came to you with those calculations? We thought that we’d start a chain reaction that would destroy the entire world...
「アルベルト。いつか計算を持って君に会いに来たことを?そこで私達は全世界を破壊する核の連鎖反応を始めるかもしれないと思案した」
ここに繋がる"I believe we did"の自然な日本語は、
字幕:その通りになったよ。
という意訳で良かったと思います。
それで十分に伝わるし、日本語として分かりやすくなったんじゃないかなと。
このあと核の連鎖反応が起きて全世界が燃えていきますよーあの計算は間違い(ニアゼロ)だったと思ったんですけど実はあってましたーとオッペンハイマーがものすごく怖いことを予言しているのがこのセリフです。
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オッペンハイマーは確かに自分のロスアラモスでの研究開発が世界の破壊のスタートになったことに責任を感じていて、だからこそ「we did」と言ってるし、それはバガヴァッドギーターに書かれてる「我は死神なり、世界の破壊者なり」とも通じるんですが、、、
日本語話者の感覚だとそこまで「私が〜」と明言しなくても、私がやったことであるという責任は十分に感じることができると思うので。「その通りになった」で十分に彼の責任と恐怖を演出できると思うんですよねー。
英語は裁判の国の言語なので、誰に責任があるのかを明示する傾向があるのでweを書きますが、日本語に意訳するなら要らない時もあるよね、と思った次第です。
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▼英文法からのアプローチ:
実は、ものすごくシンプルに中学英語の知識を使うだけで、石田泰子氏の翻訳は間違いだったと論破することも可能です。
芸術作品を相手に受験英語で突っかかるのは些か風流に欠けるので、あまりやりたくないのですが、参考までに解説します。
ラストのセリフは:(I believe) We did.
直訳:私達はそれをした(と私は信じています)
I believeは省略できるのでここでは無視して、
ここで「did=それをした」は、何の言い換えなのかを考えます。
すると、直前のオッペンハイマーのセリフは
We thought that we’d start a chain reaction that would destroy the entire world...
私達は考えました、全世界を破壊する連鎖反応を、我々は始めるかもしれないと。
なのでdidは、、、
・destroy the world=世界を壊す
・start a chain reaction=連鎖反応を始める
のどちらかの言い換えになります。
(連鎖反応が始まると世界が壊れるので、ほぼ同じ意味ではありますが)
この二択で、石田泰子氏の翻訳ではdestroyを採用して
We did=我々は破壊した
という字幕にされました。
ここで映画では、無数の核ミサイルが発射されて次々と着弾し地球を炎で覆い尽くす映像が流れます。
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しかし、注意したいのは、これはあくまでオッペンハイマーの妄想です。
実際の世界(私達が住んでいる現実世界)は「まだ」破壊されていません。
よって、、、
世界の破壊は未来の予言なので過去形のdidは使えません!
一応、、、
これで「破壊した」は誤訳だったと論破完了です。(苦笑)
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日本経済新聞(2023年8月29日)
ではオッペンハイマーが過去にしたdidは何だったかと問えば、《連鎖反応のスタート》です。
オッペンハイマーはロスアラモスの研究者たちと共同で原子爆弾を作り、アメリカ政府がそれをヒロシマとナガサキに実戦使用したことで、核の恐怖を感じた他の国々も核開発を始めるきっかけになりました。
映画のこの時点では1947年なのでアメリカが唯一の核保有国ですが、数年後にはロシアや、他の軍事大国も核兵器を保有して、一度撃ち合えば世界全体を焼き尽くす量の核兵器が配備される時代が来るでしょう。とオッペンハイマーは予見してます。
これこそが《地球全体レベルで見たときの核の連鎖反応》であり、それを始める最初の一発を作った責任がオッペンハイマーにはあるのです。
だから
We did=我々は核の連鎖反応を始めた
が正解になります。
もし大学入試共通テストでこの問題が出たらこの回答を選ばないと得点は入りません。(笑)
しかしこれでは映画字幕には長すぎるし、
前章で述べたとおり日本語では第一人称の主語は省略できるので、
We did=心配した通りになった=その通りになった
という字幕にするのがベストだったと私は思います。
▼反論への回答:
上述の内容を先にTwitterにポストしたところ、いくつか反論を頂戴しました。
・公式字幕でも意味は十分に伝わるだろ
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え、全然流れでわかるところでは…?
「その通りになったよ」じゃ元の訳より受ける印象だいぶ軽いけど…
しかし、他の人の反応を見る限り、あの字幕ですんなり理解できた人は少数派だと思われます。
むしろ反応の大多数は
・あなたの意訳の方がしっくりくる
・解説でスッキリ理解できた、ありがとう
という肯定的なものでした。
なので、ぬどんどん氏が特殊なケースだったと考えて良いでしょう。(あらかじめ原作や歴史背景をよく知っていたのか、英語が得意なのか、文面からの読解力が高いのか、それとも虚勢を張りたいだけだったのか知りませんが)
また別の人からはこのように説教されました。
・字幕にはインパクトや意外性が必要だよ
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この手のやつで対案出されているの、本当素晴らしいと思うけど、言葉のインパクトを考えれば、個人的にはあの字幕のワードチョイスは秀逸だったと思うな。
最後の台詞に、この映画の真髄が集約されていて「グッ」と来たもの。
代案じゃ感動できないかも?
言葉でインパクトや意外性を出すの大事よ。
ちょっと待ってください。
インパクトや意外性って常に必要ですか?
ここでは特に、地味な英文の字幕翻訳で必要なのか考えたいです。
そもそも翻訳とは本来の役割に鑑みれば、作者の意図を尊重して「何も足さない、何も引かない」の形で実現するのが原則であり理想ではないでしょうか。
最近では、個性が強すぎてそれなりに多くの映画ファンから嫌われている悪名高き翻訳家さんも一部いらっしゃいますが、、、(苦笑)(脚注*2)
字幕に翻訳家が個性や思想を込めると、たとえそれがどんなに優れたものだったとしても不純物になってしまいます。
もちろん英語と日本語では言語体系が異なるし、映画では時間あたりの字数も制限されるので、いつも直訳で完全に意味を正しく書き出す字幕が書けるとは限りません。
日本の文化に合わせて表現を変える(主語を変える;慣用句を使うなど)アレンジを加えることが必要になるときもあります。
ただし、本質的に意味が変わってしまうものや、多くの日本人が何を言っているのか理解できない悪文は、入念に注意して避けるべきでしょう。
何よりも、原文が地味で平穏なフレーズの時に、日本語字幕だけトリッキーさやインパクトを求めてフレーズを脚色してしまうのは、監督や作品に対する失礼や冒涜になりかねません。
本件について言えば、
原文:I believe we did.
直訳:私は信じています、私達はそれをしたと。
公式字幕:我々は破壊した
・原文の字面は平穏なのに、日本語字幕だけ物騒にするのは適切なのか?
・それは理解できない観客を多く生み出してまで採用すべきか?
…の二点に鑑みて、私は、、、
字幕:その通りになったよ
という平穏なフレーズを代案にしました。
インパクトや意外性は予告やキャッチコピー等はともかく、本編字幕では原文に合わせるのが適切だと思われます。
というか、そもそも映画は字幕だけで理解するものではなくて、字幕とビジュアルを合わせて理解するものです。
ビジュアルに十分なインパクトや意外性があって、あえてセリフは平穏にしてるのに、日本語字幕だけ爪痕を残そうと頑張るのは、てんで見当違いな努力です。
いぐぞー氏は逆張りなのか、彼もまた俺アタマ良いアピールがしたかったのか、それとも石田泰子氏の熱烈なファンなのか?…知りませんが、読んでて正直ウンザリしました。私がそこまで考えずに書いたと思ってるのかよ、ナメられたもんだぜ。私に見える形で書くからには、もう少し想像力を働かせて、よく考えてからコメントいただきたかったですね。
▼時代背景からのアプローチ:
なお私はオッペンハイマーとアインシュタインの年齢差ならば敬語を使うのが適切だと考えています。
提案した「その通りになったよ」
は、あくまで公式字幕でオッピーがタメ口で喋っていたのでそれに合わせましたが、本来は敬語で「その通りになりました」などにするべきだと思います。
アインシュタインは量子物理に取り組む科学者としては既にオワコンでしたが、過去の実績や、ドイツから亡命してきた経験など、人生の先輩としてはオッピーに説教を垂れることができる類まれな人物です。
タメ口で同等に会話していると、この二人の関係性やセリフのニュアンスが伝わらないのではないか、と危惧しますね。
敬語は字数が膨らむから使用を避けたかったのでしょうか?
▼もっと知りたい人へ:
最後のアインシュタインとの会話はもう少し深掘りした方が(絶対に)面白いのでこちらを読むこともオススメします。この映画の本質的なテーマの解説にもなっています。
あと別の方の記事ですが、最後のセリフに限らず、映画全般で字幕翻訳の理解が難しいと感じたところを列挙して解説していたnoteがあったので紹介させていただきます。最後のセリフにも言及されていて、この方の字幕案も良いと思います。前後編で2つにわたりボリューム満点です。
あとついでに、
映画の内容にはあまり関係ないですが、私はこの映画をどうしても《本物のIMAX》で観たくて昨年(2023年11月)オーストラリアに行ってきたので、そのリンクを貼っておきます。興味があったら読んでやってください。(笑)
▼脚注:
1)"I believe"は本当に削除してOKなのか?
本文では削除してOKと書きましたが、英語に真剣に向き合うと、そんなことはありません。
少し難しい話になったので、脚注として補足解説します。
believeはかなり強い単語です。欧米ではキリスト教圏の国が多いですが、彼らにとって「信じる」という行為は、日本人よりも遥かに重大なニュアンスを持ちます。
ここで英英辞書の内容を記載します。
believe | bəˈlēv |
動詞
1 accept (something) as true; feel sure of the truth of: the superintendent believed Lancaster's story | [with clause] : Christians believe that Jesus rose from the dead.
1 何かを真実として受け入れること;何かの真実を確かに感じること:教育長はランカスター王家の物語を信じている:キリスト教信者はイエスキリストが死から復活されたと信じている。
• accept the statement of (someone) as true: he didn't believe her or didn't want to know.
誰かの主張を真実だとして受け入れること:彼は彼女も一切信じようとしなかったし真実を知ろうともしなかった。
• [no object] have faith, especially religious faith: there are those on the fringes of the Church who do not really believe.
信念に基づく信頼を持つこと、特に宗教的な信仰をいう:教会から離れた村の辺境には神を信じない者どもが暮らしている。
• (believe something of someone) feel sure that someone is capable of doing something: I wouldn't have believed it of Lois—what an extraordinary woman!
誰かにそれを任せても良いと信じること:まさかロイスがそれを出来てしまうなんて思いもしなかった、なんて傑出した女性なんだ!
2 [with clause] hold (something) as an opinion; think or suppose:
2 [条約・誓約書の条項で]意見として持つ;そう考える(欧米では政治もキリスト教の上に成り立っているので、この言葉が使われる)
ワード単体の意味だけでなく、使われている例文に宗教的な場面や、宗教を土台とした司法行政の場面が多いことに注目してください。
believeという言葉の重みは、宗教観念が希薄な日本人にはかなり感じ取りにくいものです。たった一つの神の名の下において、私はそれ(または人)を絶対に信じるという決意表明に近い単語でもあるからです。
日本では『トイレの神様』なんて曲がヒットするように、日本人は《全てのものにはカミが宿る》という発想をしがちです。これは縄文時代から数千年以上も続く八百万神の民間伝承の考えだと言えますが、ここでのカミは欧米から見ればゴッドではなくて精霊や妖精みたいなものです。西洋人がゴッドと発言した時は、日本人が仰々しく天照大神と古事記・日本書紀に書かれた最初の神の御名前をフルネームで唱えるようなものだと理解すれば近いでしょう。(そんな畏れ多いことを敬虔な日本人は滅多にしないように、欧米でもライトな時はオーマイゴッシュと神の名前の最後を濁します)
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そんな天照大神と今上天皇の御名の下において我は信じる、とでも言うくらいbelieveは強い意志表明なので、本来は映画の日本語字幕にもそのニュアンスを載せることができれば理想です。
しかし良くも悪くも日本人は宗教の正しい理解が無い人が圧倒的に多いので、そんなニュアンスを映画字幕の短い文字数に、普通の日本人に伝わる形で込めることは不可能です。
これは掘り下げると実はすごく深い問題で、日本では日本神道が生活に浸透しすぎて、もはや宗教や規律などいちいち教会や組織の力を借りなくても無意識に行動規範に適用できるレベルになっているからである…という一周回って日本人は実はもっとも宗教が進んだ民族であるという見方も出来ます。(世界では野蛮な民族や地域ほど宗教の力を借りて、厳しい戒律で人々を押し付ける必要があったという説もあります;日本列島は清潔な水と水産資源が豊富だったので自然状態で国民が野蛮にならず、宗教もマイルドになりました;一方で欧州では自然状態で人類は闘争状態になるなんて説かれたのは示唆的です)
なので、《もはや神の存在なんて当たり前すぎて意識さえしない》という意味で、I believeの部分はごっそり削除してしまうのが、日本語字幕では最適解だと私は考えます。
2)一部から嫌われている字幕翻訳家について
2009年のアバターという映画の字幕と吹替を比較して、翻訳が個性的になりすぎることの弊害を詳しく論じました。興味がある人はそちらもどうぞ。
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(了)
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