「Vtuberには中の人がいる」という暗黙の了解について

このNoteは

のツイート(僅か82字)がちょっと拡散されているので、誤解が生じる前に弁明してしまおうという記事です。

本文に入る前に、まず以下の配信のラストを見てください。話はそれからだ。

1.2434systemを主体としたストーリーに関する己の見解

にじさんじに関しては古参な方なので、ストーリーの存在とその概略に関しては大まかに把握しています。が、おなえどしや黛のファンのように、隅々まで把握しているわけではないです。また、このストーリーを使った配信スタイルが至上のものであると主張するわけではない、ということは最初に言及しておきます。もちろん面白いし考察も楽しいですが。ただ、自分が普段見ているライバーは、むしろそのストーリーにはほぼ関与しないと断言してもよい人ばかりです。(うち一人は考察に揺れるTLに「コーヒーをキーボードにぶちまけた」という報告を残した、完全な「一方そのころ」枠です)

自分のツイートが意味しているのは、今回のストーリーには全く関係のない、「Vtuberとは何か」という認識論についてなので、ストーリーに関する知識不足があったら申し訳ないです。

2.ツイートの解説

解説、というか注釈をつける形で補足していきます。また、自分は以下で登場するどの論も支持できる段階にはないので、主張というよりは分析という形になります。

「Vtuberには中の人がいる」という暗黙の了解*¹に対する哲学的アンチテーゼ*²を、大手のVtuber自身が論じることなく投げかけた*³のは転換点の一つ*⁴なんじゃないかなと思う

① 「Vtuberには中の人がいる」という暗黙の了解

我々は当然、Vtuberには中の人がいると思っています。ただ、それをVtuber本人に対してぶつけてしまうのは、ディ〇ニーランドでミ〇キーに対して「どうせ中の人がいるんでしょ」と言ってしまうようなもので、それは大変失礼に当たるからタブーである、ということになっています。

しかしタブーはタブーでも、我々はVtuberを見るとき、「中の人がいる」という前提を覆すことはなかなかできません。Vtuber自身が「Vtuberだって生きているんだ!」と主張したとき、我々は「中の人がいるのだから生きているのは当然だろう」と受け取ってしまいがちです。

その点で、マンガや小説のキャラクターとは性質が異なっています。我々はマンガなどのキャラクターは「純粋な仮想存在」として受け入れているので、「現実世界で自分がこのような行動をしたら、キャラクターはどう思うだろう」と考えるようなことはまずないでしょう。Vtuberはマンガのキャラクターのような「純粋な仮想存在」ではないのだ、というのが今までに周知されてきた見解でした。

② ①に対する哲学的アンチテーゼ

黛の3Dお披露目配信は、①という従来の考えに対するアンチテーゼでした。

我々が「純粋な仮想存在ではない」「中の人がいる」と認識してきたVtuber像は、間違っているのではないか、とストーリーを絡めて投げかけているのです。(ただし、これは自分がそう解釈したので、「黛はそんなこと言っていない」という解釈も十分にありえます。が、その辺は置いておいてください)

※以下、完全に私の解釈です

二次創作をする人はよく分かると思いますが、Vtuberの「Vtuberとして活動していない時(つまりリスナーが観測できない領域)」には2パターン存在します。「VtuberがVtuberの姿・設定のまま日常を過ごしている(A)」と、「Vtuberの中の人が日常を過ごしている(B)」の2つです。

二次創作をするときは絶対的にAの方を考えるでしょう。Bは非常にメタな視点ですが、①で説明した「暗黙の了解」が存在している以上、我々は「Aが嘘でBが真実だ」と思っているわけです。

しかし本当にそうでしょうか?

アニメのキャラクターには声優という中の人が存在します。しかしキャラクターにとってはアニメの世界が全てであり、自分の中の人や作者といった上位概念を認識することはできません。我々とこの世界がもし神に作られたとして(デカルト曰くそうではないでしょうが)、我々は神という存在を認識できないのと同じ感じだと言えばよいでしょうか。

要するに、Vtuberをキャラクターとするならば、VtuberにとってはAが真実であり、Bの存在は認識できないのではないか、ということです。しかし我々は、「Aが嘘でBが真実だ」と思って彼らと接するので、認識のズレから来る違和感がある。そのようなことが配信では述べられたのだと思います。

この論をとるならば、Vtuber自身が「Vtuberだって生きているんだ!」と主張したとき、我々は中の人ではなく、仮想存在としての生命を考える必要があるのではないでしょうか。

③ 大手のVtuber自身が論じることなく投げかけた

実は、自分が一番重要だと思っていることはここです。

Vtuberはその特性から自分自身の存在に関して述べることが、あまり得意ではないように思えます。最初から「メタ視点で語ることがある」というスタンスを取ると明言しているような活動形態を採っていない限りでは、リスナーに受け入れづらいからでしょう。特に大手企業勢は、その影響力からかなかなか語りづらいのではないかと思います。(逆に「メタ視点で語ることがある」Vtuberといえば、届木ウカなどが浮かびます)

また、Vtuberに対する認識論は今まで各所でなされてきましたが、多くはこの記事のような「論じる」形でした。だから自然と「メタ視点を論じる」形をとる認識論は、配信や動画でエンタメを届けるというVtuber自身が最も苦手とする論であるように感じていたのです。(もちろん、ユリイカのような例外は存在します)

以上の障壁を乗り越えた形が「論じずに投げかけること」でした。

ストーリーという媒体が緩衝材になることで、多くの人々に認識論を投げかけたのは、正直表現者の端くれとしては脱帽ものでした。もっと言えば、「認識論のアンチテーゼなんだ!」とリスナーが勝手に言っているだけで、「黛というキャラクター」はそんなこと微塵も思っていないわけです。そこがVtuberというキャラクターを保持したまま行える限界点なのでしょう。

このような表現が登録者数20万超のVtuberによって、3Dお披露目という晴れ舞台で、7万人近くの人になされたということは、数字としても意味があると思います。

④ 転換点の一つ

転換点「の一つ」と述べたのには意味があって、アズマリムが数日前に行った配信の内容を考慮したからです。

ここでは「Vtuberは完全な仮想存在ではない」ということが強調されています。先ほどの論とは食い違っているのではないか? とも捉えられるのですが、黛が「Vtuberは完全な仮想存在だ」と言っているわけでも、アズマリムが「中の人がいる存在だ」と言ってるわけでもないでしょう。

この仮想存在・現実存在の狭間にあるという複雑性が、認識論を深めているのではないかとも思うわけです。黛の主張やアズマリムの主張、また今までなされてきた論全てを突き合わせても、Vtuberを定義することは不可能でしょう。

その不可能性は現在進行形で無限に考察を生んでいます。自分はそこが楽しいと感じているわけです。

追記(7/13更新)

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