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「ミレイユの右へ」49

第四十九回 葉書



 ……私しか愛せない?
「意味が分かりません」思わずそう口をついて、少し険のある言葉が出た。
「ああ……一足飛びに行き過ぎたわね」
 木村先生は、自分のカップに紅茶を注ぎながら、
「これは、私の友人の体験談と言うか、見聞なんだけど、ある女の子がいたのね」
「はあ」
「その子には、部活を通じて固い友情で結ばれた親友がいたのよね。で、この子が酷く悩みを抱えているような感じだったので、私の友人がある時相談に乗ったの。すると、自分は大学に入って男性の友人も複数出来たけど、誰にも全然ときめかない。そんなのよりより絆の深い女性の親友に強い愛情を感じるって言うのね」
「絆……ですか」
「まあ、そういう話を聞き出すまでに二人ともかなりお酒が入っていて、勢いで性的関係を持ちたいのかっていうところまで踏み込んだらしいんだけど……」
 お互いの目線が、あらぬ方へ逸らされた。
「そういうことはないっていう、ことだったらしい。まあ、傍にいてほしいとか、そんな感じ。つまり、同性愛を告白されたからって、イコール性的パートナーになってほしいってこととは限らないのよ」
 状況を思い返してみて、先生の説明が腑に落ちる気がした。
 何だか胸の中の閊えが晴れてくるように思ったが、それと入れ替わりに、絆の深い人しか愛せないという言葉が、重く胸に染みこんできた。
「もちろん、性的な関係を望んでいる場合もあるんでしょうけど、絢ちゃんの場合、そんなガツガツしたこと考えないでしょう」
「ガツガツって」
 確かに、そもそも絢はどこか中性的だった。小学生の時は、男の子っぽいところもあったし、考えてみると、ずっと揺れ動いているような不思議な存在だった。
 それが、一体いつから私のことを?
 思い返してみると、あの「二人だけのセレモニー」のテープが現れた時より以前のことなのではないかと気づいて、一層胸が重苦しくなった。
「で……私は、どうしたらいいんでしょう?」
「……あなた次第だわねえ」
 話は、堂々巡りになった。
「例えば、あなたがお嫁に来てほしいって言えば、喜んでお嫁に来るでしょうしね」
「……嫁って」
 思わず脳裏に一瞬その光景が浮かんだ。
 何だか悪くないような気がして、慌てて幻想を打ち払った。
「ね?」
 木村先生が、意味不明な笑いを浮かべていた。
「性の壁って、案外脆いのよね」
 ……だがしかし、そんなわけにはいかない。
 久埜は、自分はその傾向はないので、と説明し、現実的な対処のアドバイスを求めた。
「まあ、そうなるわよね」木村先生は、あからさまににつまらなそうに言った。
「手紙を書くしかないわね。あなたの気持ちに対して、私はこう思った、ということをね。――文章で少しずつ、お互いの今の気持ちを確かめ合っていけばいいと思うよ。電話だとね、いろいろ誤解が生まれやすいから、それはしばらくしてからの方がいいと思う」
 そして、同窓会用に記録しておいたという、絢の新住所を紙片に書き写してくれた。
「ああ」ひとつ言葉を足された。
「絢ちゃんのお母さんも察しているんだっけ?」
 それは状況説明の時に話に出しておいた。
「封筒だとむしろ手渡されない恐れがあるから、葉書で出しなさい。読んで、むしろ手渡したくなるような、堂々とした気持ちを書きなさい」

 帰り際に、アトリエの方に招かれた。
 テーブルの上に、大判のマネの画集が開いて置いてある。
「あ、『フォリー・ベルジェールのバー』ですね」
「この本大きすぎて、学校に持って行くのはしんどかったのよ。遅くなったけど」
 非常に高精細な画像の中で、あの黒衣のバーメイドが虚ろな視線をどこかに送っていた。
 その目の表情が、別れ際に見た放心気味の絢のものと同じように感ぜられ、久埜は不可解な感覚を味わった。
「以前、あなた面白いことを言っていたわね。定説では背景の鏡の中では現実を歪めてあるっていうことになっているけど、実は現実そのままではないのかって」
 確かに、美術部でもそんな話をした気がする。
「最近、その説に立って研究論文を出した人がいるらしいの。角度によっては、絵の中の位置関係はこのままなのではないかって」
「そうなんですか」
 何だか嬉しかった。自分と同じ様な物の見方をする人が世の中にはいるんだと。
「まだまだ確定じゃないんだけどね」
「それでも嬉しいです」
 いろいろな絵を見てきたが、画家の視点は多様だった。一つの絵を構成するのに多視点を持ち込む人もいれば、一見不可能な世界を現実の中で見つけ、それを絵にする人もいる。
 多分、人間を見るのも同じだ。
 私は、絢の何を見てきたのか。
 絢は、きっとこんな絵なんかより遙かに奥深い。
 彼女の言葉や、今までのことを全部、多視点で考えてみよう。
 そう思うと、あの時背中に書かれた「すき」という言葉に至るまでの全てを理解しなければいけないような気になってきた。
 それは性的パートナーを求めていることとは、どうも思えない。そんな単純なことではないような気がする。
 誤解を受けることや、自身を傷つけることを厭わず、それでも告白に至った気持ちとは一体どんなものなのだろう。
 久埜は、このまま絢と一晩中でも話せたらどんなにいいだろうと思った。
 けれど、きっと傷ついている絢には、段階が必要なのだろう。それに、自分自身にも。
 木村先生の家を辞去して、帰りに電車の停留所の前にあった文房具屋に寄った。
 ファンシー文具のコーナーに行き、葉書のコーナーを見ていると、ビートルズをモチーフにしたものがあった。
 白黒の写真と、背景に英語の歌詞が印刷してある。手にしたのは、「イット・ウォント・ビー・ロング」のものだった。





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