「ミレイユの右へ」27
第二十七回 歪んだりんご
次の部活の時間に、久埜はスーパーで安売りしていた一山幾らのりんごを持ち込んだ。
形も悪く、品種も分からなかったが、絵にするためのものであるから別に構わない。
部室には一番に来ていたので、まだ誰もいなかった。
絢は木村先生と渡り廊下の辺りで立ち話をしていたが、まだそれが続いているようだ。
手提げ袋からりんごを取りだし、いつも対象物を置く白いクロスの掛かったテーブルに置いた。
全部で五個。並べてみると、それぞれ形がかなり違っていて特徴がある。
いろいろ向きを変えて、じっくり観察した。
中に底面が随分上に偏っていて、蔕のある場所が真っ直ぐ久埜の方を向いてくるものがあった。
側面は死角に入り、赤色の部分だけが見える。何となく笑いかけてくるような愛嬌があって、久埜は妙に気に入った。
画板を取って、下絵(エスキース)に入る。
大まかな形と、光と影を写し取る作業だが、初心者なのでそうそううまく気に入った線が出ない。
描いては消しを繰り返していると、絢達が美術教室に入ってきた。
「……何だか随分熱心にやっているわね」と、木村先生。
ついこの間、デッサンが面白くないと宣言して憚らなかった人物が、食い入るように作業をしているので目を疑ったらしい。
「しかも、『歪んだりんご』とはね」
「そんなドラマがありましたね」と、絢。
「あれは『ふぞろい』でしょ」
歪んだりんごは、実はデッサンではお馴染みの素材で、りんごの微妙な凹凸や照り等の表現が結構難しいので、ステップアップの為によく出題されるらしい。
表面に色の濃淡があるので、鉛筆画では影のつけ方にも工夫がいる。
久埜はすぐ背後にいる二人の会話には、混じってこなかった。
普段なら「ああ、主題歌がサザンの『いとしのエリー』でしたよね」とか言ってくるはずだが、と絢は首を傾げていたが、そのうち後から来た部員も横に並び、久埜のまだ拙いデッサンを皆で見学することになった。
描いては消し、描いては消し。
そのうちに、これしかないと思われる線が朦朧と立ち現れる。
……しばらくしてそれぞれが自分の場所に散って、各々の課題を無言で行い始めた。
その日は結局、久埜のデッサンは完成しなかったが、そもそもが練習なので本人はそれなりに満足しているようだった。
下校時間が近づいてきて、帰り支度を始めた絢が、
「りんご、持って帰らないと」と、言った。
「部活、来週までないから」
「……ああ。冷蔵庫もないしねえ」
だが、また持って帰るのは重いし面倒臭かった。
……そうか。いっそ、食べてしまえばいいのだ。
「先生、このりんごを剥いて皆で食べちゃいませんか?」
「え? ……まあ、そのまま捨てるわけにはいかないしね」
鍵束を机から取り出して、同じ棟にある家庭科教室から果物ナイフとお皿を持ってきてくれた。
それを受けとり、ナイフの木の鞘を外した。
「え? 久埜が剥くの?」
「そうだけど?」
「何か以前、剥けないとかなんとかで悩んでいたように聞いたけど?」
……早紀の奴だな。とにかく、何でもかんでも報告するんだから……。
でもまあ……今となっては……。
久埜がするするとナイフで皮を剥いていくと、絢は本気で驚いたようだった。
「あ、凄い。苦手を克服したのね。素敵!」
「そんな大層な……」
聞き流して、さっさと家でやっているように一個を六分割し、芯を切り取った。
皿に並べられたそれに、次々と手が伸ばされた。
甘さはさほど無かったが、皆喉が渇いていたのか忽ち消費されていく。
最後の一個を剥き終わり、切り出した一個を何気なく絢に向けた。
「お上がりなさい」
絢の相貌が近くにあり、即興の幻想が降ってきた。白雪姫に毒りんごを与える悪王妃のような気分。
「頂きます」
久埜の持ったままのりんごに、そのまま絢が口をつけた。
何時にない行儀の悪さに驚いたが、何だかうっとりとして、わざわざゆっくり味わっている感じだった。
そんなにこのりんごおいしいか?
最後の一片を囓ってみたが、やっぱりちょっとパサパサして、お値段並の味だと思った。
……そして、そんな二人の様子を木村先生が、ひっそりと窺っていた。
帰りのバスの中で、
「明後日の日曜日、一緒に木村先生のお宅に行かない?」と、絢が言った。
「え? それってどこ?」
聞いた住所は、よく行く生活圏の中だった。久埜のところからでは、路面電車で二駅だ。
「一部屋書庫にしてあって、漫画が凄くあるの」
ずっと、それがどこにあるのか疑問だったがそういうことか。
「別にいいけど」
「じゃあ、決まりね。連絡しとく」
いつもの場所で絢と別れ、商店街の中を歩いていると、今日散々見つめたりんごの面影が脳裏に浮かんできた。
妙な感覚だが、やっぱりあれは可愛いりんごだったと思う。
結局、食べてしまったが……。
……そう言えば、蔕がこっちを向いているほど歪んでいたが、中の芯はどう通っていたんだろう?
剥くときに、よく見ておけばよかった。
直感だが、内部構造の理解も絵を描くときには大事なんじゃないかと思った。