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ホラー短編 「栞」

 降雪の予報は出ていないが、この数日変わり映えのしない暗鬱な曇天が続いていた。
 いつもの駅からの帰路を歩いていると、舗道沿いのビルの一階にある古本屋が閉店セールの張り紙を出しているのが目に留まった。
 コート姿ばかりの通勤客の群れから外れて、ふと立ち止まる。
 昔からある店だ。中学生の頃には、よく漫画を買いに通ったものだが、社会人になって以来足が遠のいていた。
 ここも、とうとう無くなるのかと思い、老朽化した店構えを眺めていたが、全品半額の赤文字にも惹かれて、久しぶりに店内を覗いてみる気になった。
 先客が数人いて、奥の方は混んでいる。取り敢えず入り口付近の海外文庫の棚を見ていると、昔持っていたカトリーヌ・アルレーの『わらの女』を見つけた。確か完全犯罪ものだったはずだが、内容はすっかり忘れてしまっていた。
 父親に漫画と一緒に買ってもらった覚えがあるから、それこそ中学生の頃だった……。
 表紙を眺めていると、郷愁なのか何なのか無闇に欲しくなってしまい、そのままレジに向かってそれを買ってしまった。

 夜、晩酌のウイスキーを舐めながら文庫本の頁を捲っていくと、気が付かなかったが薄っぺらい紙の栞が挟んであったようで、それがはらりと膝の上に落ちてきた。
 それ自体は何の変哲も無い白い洋紙の切れっ端で、頭に緑色のレーヨンの紐が申し訳程度に付いているが、それはすっかり色褪せていた。
 だが、細字の油性ペンで紙の表面に数字がびっしりと書き込んであるのが目に付いた。
 三組の数字が十段。組数字の間は、ハイフンで繋いであった。
「……ははあ」
 これはおそらく書籍暗号という奴だな、とピンと来た。オッテンドルフの暗号とも言われるもので、要するに鍵となる本の頁数・行数・何文字目かを記したものだ。
 例えば、123-045-006 ならば一二三頁の四五行目の六文字目を見ればいい。
 実に単純極まりないが、暗号鍵となる書籍が不明だと絶対に解けないので、実際の諜報活動に使われていたこともある。
 この場合、この本が鍵に違いないと思ったので、つい興味を持って該当する文字を探し始めた。
 ……が、探し出した文字を繋げても何の意味も見いだせなかった。
 ふ・れ・き・ま・け・せ・ん・じ・意・め
「阿呆らしい!」
 本を放り出し、残りのウイスキーを呷るとそのままベッドに横になった。

 次の日、帰路を辿っているとあの古本屋の前で、老店主が煙草を吸っている所に出くわした。
 目顔で挨拶すると、
「昨日はどうも」と、返された。憶えられていたらしい。
「今日で閉店ですか」
「そうです。……久しぶりに、また『わらの女』を買われましたね」
「えっ? そんなことまで憶えているんですか? もう何十年も前ですよ」
「いやいや、客を全員憶えているわけじゃない。あの時、お父上が一緒にマルクス・アウレーリウスの『自省録』を買われてね。儂もこれが好きなもんだから、どんな人が買うのか興趣として憶えているわけで」
「自省録……」
「一冊ありますよ」
「あ、いや。確かまだ本棚にあるので……」

 家に帰り、本棚を探すとすっかり黄ばんだそれはすぐに見つかった。亡くなった父の蔵書は、そう言えばもうこれっきりである。
 いい本だからいつか読め、と言われて手渡された物だが、それ以来開いたこともなかった。
 机に向かうと、その上にはまだあの栞があった。
 本と栞を対で眺めていると、奇妙な感覚に襲われた。
「……いや、まさか」
 この二つには、何の関連性もないはずだ。
 だが、……この数字……よく見ると、父の字に少し似ていないか?
 恐る恐る栞の数字に合わせて文字を拾っていくと……。
 こ・の・本・で・正・解・だ・見・返・し
 愕然として本を繰ると、裏表紙の見返しに「四巻 三十七」と油性ペンで書いてあった。
 自省録の段落には、皆それぞれ番号が振ってある。
 震える手で探し出してみると……。

三十七 間もなく君は死んでしまう。それなのに君はまだ単純でもなく、平静でもなく、外的な事柄によって害を受けまいかという疑惑から解放されてもおらず、あらゆる人にたいして善意をいだいているわけでもなく、知恵はただ正しい行動をなすにありと考えることもしていないのだ。

 ……間もなく君は死んでしまう? いやいや、これは亡き父からの箴言だ。生活態度を改めて、いい加減に結婚して家庭を持てと、あの世から文句を言っているんだ!
 落ち着こうとウイスキーの壜を呷ったが、その途端にかつて経験したこともない強烈な胸の痛みが襲ってきた。



                               了

 岩波文庫キンドル版 マルクス・アウレーリウス著「自省録」神谷美恵子訳より引用しました。

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