「ミレイユの右へ」65
第六十五回 敵
……だが、今回はそううまい具合には話が進まなかった。
まず、病院厨房の職員は感染症を持ち込まないよう普段から健康管理を義務づけられており、急に参加するというのはいろいろと問題が多かった。
また、一番久埜の鼻っ柱をへし折ったのは、別れ際に婦長さんから詳しく教えてもらったアレルギー物質の多さだった。手渡された教育用のパンフレットには、想像以上の品目が並んでいた。
何となく卵・乳製品・小麦等が食べられない病気だと思っていたが、表になったそれを見ると、
「バナナ、オレンジ、キウイフルーツ?」
フルーツ盛りの常連の名前が挙がっていた。
「そういう子も、中にはいるってことでしょ?」
絢が久埜の顔色を見てなだめるように言った。だが、
「リンゴにゼラチンも!」
それでは、例のフルーツケーキさえ作れない。
「だから、ほとんどの子は大丈夫なんじゃないの?」
絢はそう言うが、久埜は自分の知識不足が急に怖くなってきた。少なくともそれ相応の知見を持っていなければ「これはアレルギーがあっても大丈夫ですよ」などと言って安易に提供すべきものではなかったのではないか。
かなり凹んだ気持ちだったが、帰りのバスの中で長々と揺られていると、久しぶりに考えが纏まってくるような気分があった。
「私って、何というのか使い道が狭いのよね」
「……それはまた凄絶な自己分析ね」
隣の座席で、久埜に合わせてじっと瞑目していた絢が片目を開けた。
「フルーツはもう誰より綺麗に切って盛り付けられる自信がある。……けれど、もしそれでお店をやろうとするなら、それだけでは成り立たないよね」
「……」
「絵だって、例えば果実の静物画なら上手に描けると思う。けれど、人物画は駄目。漫画も背景ならどうにか。料理部だって、得意分野ばっかりやっていたし」
「いや、何だか悪いところばかり見つめていない?」
「だから、もうちょっと広い視野と知識を持たないと、駄目なんじゃないかと思い知らされた。結局、そうじゃないと何も出来ないって」
「へえ」
それは病院給食とか栄養学とか、そういうことに興味を持ったということなんだろうか。
「なら、管理栄養士を目指す? いい短大が結構あるよ」
が、久埜はきょとんとしていた。
「何で?」
「何でって……今の話からいくと、そうならない?」
「頭の中がアレルギーのことばっかりなのよね」
「そっち?」絢の声が裏返った。
「万全の対策を立てるには、敵を深く知るしかないじゃない」
「あー、つまり、免疫学を学びたいと」
「アレルギー疾患を知るためなら、生理学や生化学、薬理学だって学ばないと」
「え? 今から本当に医学部目指すの?」
「駄目かなあ」
久埜の成績だとかなり無理をしないと……と言いかけて、絢は口を閉じた。
……使い道が狭いだけあって、久埜は確か桁外れの集中力の化け物ではなかったか。
どうせなら、ということで教育学部と医学部のある同じ国立大を目指すことになった。
夏休み終盤は、絢先生の短期集中講座が日がな一日行われ、予想通り絢が心配になるくらい久埜はテキストに集中し、声をかけないとやめないくらいであった。
が、二十九日の夕方からはぱったりとテキストを閉じ、台所でりんごの皮を剥き出した。
「何してるの?」
「りんごを煮るの」
「何で?」
「シロップに漬けて、冷やして、あの子にあげるの。りんごは大丈夫なんだって」
「あの子?」
「病院にいたでしょ。お母さんも明日来るんだって」
「ああ、あの小さい女の子。……って、病院にやっぱり行くの?」
「行くわよ。レポートを頼まれてたでしょ」
感想文程度でいいと言われていたはずだったが、クリップで挟まれた久埜のそれは異様に分厚かった。
後日郵便で送るつもりで、後回しにしていた絢は大層苦しむ羽目になった。
こども病院の行事食の日。比較的年長の子が一人だけ誕生月で、その誕生会がこじんまりと行われていた。
例の女の子は、片隅でいつも通りの様子だ。けれど、今日はお母さんが傍にいるので機嫌はいいようだった。おやつをあげる許可は貰っていた。
久埜は、持ってきたプラスティック製の保存容器を女の子の前に置いた。何か別のアレルゲンが付着していないように、何度も念入りに洗ったものだった。
蓋を取ると、煮られてシロップの染みた、つるんとしたりんごが入っていた。
「食べて? これがお姉さんの出来る今の精一杯」
久埜の視線と幼いそれとが絡み合った。女の子は、おそるおそるフォークをそちらへ伸ばすと、その一片を器用に刺して口に運んだ。
「おいしい!」
お気に召したようだった。女の子は、まるでスイッチが入ったかのようにぱくついて食べ始めた。
後ろの方で、院長と総婦長がこっそりとその様子を窺っていた。
「やっぱりお互い刺激になったかな」
「部外者を入れてみるって言うのは、やっぱり反発がありましたねえ」
「不許葷酒入山門(くんしゅさんもんにいるをゆるさず)……なんて、戒壇石のおっ立っている寺じゃないんだから、出入りなんか自由でいいだろうと思うんだがね」
久埜のレポートには、バイキング形式のフルーツパーティや、行事食に娯楽を取り入れた、謂わばイベント的な食事会等のアイデアが詰まっていた。
「斬新だけど、きっと、こういうのが普通になっていくんでしょうね……」