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「ミレイユの右へ」54

第五十四回 赤い糸




 飛来した瓦は登り坂でスピードを上げていた源蔵の車のボンネット上部に縦に突き刺さり、殆どが一瞬で破砕した。しかし、大きな一片が欠けてフロンドガラス方向へと跳ねた。
 それは、猛烈な勢いで厚い合わせガラスを破壊し、源蔵の頭部を掠めて、また車内で跳ね廻ると、後部の窓を破り、どこかへと消えていった。
 突然爆散したフロントガラスと、吹き込んできた風雨で視界を奪われた絢は、何が起こったのか分からず、驚愕で思考が停止していた。
 だが、車の勢いが落ち、急に蛇行し始めたのを感じて、運転席の源蔵を見た。
 頭部から流血して、首が垂れていた。
「お父さん!」
 車はオートマだった。まだじりじりと動いており、一方は擁壁だったが、ガードレールのある急カーブ外側へと向かっていた。
 絢は、サイドブレーキを探したが、その車は生憎フットブレーキ方式だった。
 考えあぐねているうちに、車は事故か何かで欠けていたガードレールの隙間の方へ決められていたかのように進み、どっと増えてきた雨水と共に、その先へと滑り落ちてしまった。

 一時頃。
 「ミレイユ」は五島列島の南にあり、長崎方面に向かっていた。
 既に長崎、熊本周辺では送電網への被害が始まり、停電した地域が出始めた。
 「ミレイユ」の中心部が近づくにつれ倒木が起き始め、電柱そのものがなぎ倒され、建物の破損、車の横倒しが次々と起こった。
 「これは普通の台風ではない」と、人々が勘付いたときには既にそれは目の前に来ていた。

 久埜達はホテルに着いて、中の喫茶エリアで一服していた。
 店内からは通りが見えるが、来るときから比べて世界が一変したみたいに大荒れの天候である。
「何だか物凄いな」
 風に乗って、いろいろな塵が道路の上を飛んでいく。
「こりゃあ、危ないから今夜はここに泊まりだな……。皆の分、申し込んでおかないとな」
 源さんが立ち上がって、フロントへ向かった。
 真史もトイレに行って、久埜と涼子さんだけになった。
「あなた」
「はい?」
「何か悩みでもあるの? どうも浮かない表情だし」
「いえ、そんなことは」
「恋の悩みでしょ?」
「うーん」
 凄く的外れな気もするが、絢のそれに関してと考えれば当たっているような気もする。
「誰か好きな人でもできた?」
「そう言われると……」
 よくよく考えると、絢みたいに骨の髄まで悩み抜くような恋愛というものは、まだしていないような気がする。
 ……いや、何でいちいち絢と比べるのだろう。
「真史君のことは、どう思っているの?」
 いきなりストレートに訊かれて、逆に久埜は冷静になった。
「いい人だとは思います」
 その前の思考からの敷衍だ。自分はまだ悶えるような恋愛を感じていない。いつか、そうなるんだろうと予感していたのだが、現在もそうなっていないので、それが結論なのだろうと思った。
「そう! 彼氏じゃないのね」
 何だか妙に嬉しそうだ。正直に答えた自分を馬鹿だと思った。
「うちの菜乃佳がもう、真史君のことが、好きで好きで」
 頭の中で「やっぱり」という、舌打ちする声がした。
「姉として心配だったのよね。……あら、いろいろ明け透けでごめんなさいね」
「いいえ」
 何を今更。
「明け透けついでに面白い話。私って、今は水商売やってるけど、こう見えて好きな人としか付き合ったことはないのよ」
「え? それじゃあ……」
「絢ちゃんのお父さんも、根はいい人なのよ。優しいし、いろいろ気を遣ってくれてね」
「……」
「でね、最近思うんだけど、恋愛にはやっぱり運命的な要因が絡むんだと思うの。何でもない偶然の積み重ねの中から『絆』という糸が生まれるんだわ」
「赤い糸ですか」
 どこから一体、そういう考えに至ったのか……。いつもクールな佇まいの涼子さんらしからぬ話だった。
 ホールから、源さんが呼ぶ声が聞こえた。
「打ち合わせをするぞ!」
 涼子さんは返事をして立ち上がった。
「源さん……。本人も昔ながらの呼び名の、『剥き源』で通してるけど、あの人も本当は源三(げんぞう)って言うのよ」

 入れ替わりに真史が帰ってきた。
 久埜は何だか、この際はっきりさせておこうと思ってしまった。この後、どうせ絢とも話さなければならないので、異常に精神が高揚していたのだろう。
「菜乃佳さんのことは、どう思っているんですか?」
「うっ」
 久埜から真っ直ぐ見つめられて、真史は目が泳がせ、返事に窮した。
「お付き合いを?」
「うーん。いろいろ、料理に関して一緒に……」
「それで?」
「……僕は恋愛経験がほとんど無いので、よく分からないんだけど、どうも……」
 久埜は答えを予測できた。
「菜乃佳さんのことを……好きになったみたいです」




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