見出し画像

「ミレイユの右へ」53

第五十三回 暴風




 早紀と一緒にいた男性は花山と名乗り、元々金星軒の味が気に入って通っていた常連だったらしい。
「アニメも好きなんだけど、ラーメンも大好きで……」
 将来、自分の店を持つのが夢で、高校卒業後、飲食店で修行しながらお金を貯めているのだという。
 それは実に堅実な話だ。早紀と一緒になって金星軒を継いでしまえば、きっと手っ取り早いのだが……。
 そこまで考えて、いつの間にかすぐそこにそういう未来の迫っている世界に自分たちが達していたことに久埜は驚いた。
 ラーメンスープ云々については、まだ全くの構想レベルなのだそうで、そういう形態でチェーンを成り立たせるには少なくとも十店舗程度が必要で、しかも需要のある大都市圏でしか成り立たないだろう、という話だった。
「その上、運送方法とか時間が経っても味の落ちないスープとはどういうものか、とか難題だらけですね。でも、うどん屋ではそれで成立しているところもあるので、不可能ではないと思うんですけどね」
 花山君の語る、飲食店業界の裏話は面白かった。
「俺の話は聞かないのか?」源さんが言った。
「えーと」
 どうせ、酒好きの源さんが目と鼻の先にある涼子さんの店に通ううちに、何かこう、よく分からない逆説的奇跡が起きたのだろうと思っていたので、のろけ話は遠慮したかった。
「例のフルーツの盛りつけだが、なかなか立派なもんだぞ。ああいうのは今まで無かった」
「……そっちの話?」
 そう言えば、源さんからの直接の感想というのは聞いたことはなかった。
「真史から話を聞いて、涼子の店で現物が見られるというので行ってみたのが、考えてみるとそもそもなんだよな」
 ……それでは、自分が逆説的奇跡の端緒を作ってしまったようなものではないか。
 一瞬唖然としてしまったのか、その表情を見て真史が笑っていた。
 その後は、「剥き源」らしく果物の皮の剥き方切り方の講釈があり、改善案の提示もあって久埜は引き込まれていたが、この面子には絢のことは話しておかなければならないだろう、ということにやがて気がついた。
「へえ、明日会うんだ」
「よろしくお伝え下さい」
「あの子、凄く綺麗になっている気がする」
 皆が勝手にそれを想像して場が静まった時、
「いや待てよ。その小倉のホテルって、ひょっとして『Tホテル』か?」と、源さんが言った。
「そうです」
「そこなら、それこそ明日、結婚式の相談に行くんだよ」
「……ええっ?」
「真史の車で行くから、一緒に行こうや」

 その夜中。
 二十七日零時頃には、「ミレイユ」は、那覇の北西付近にあり、中心気圧は930hPa 、最大風速五十メートルだった。
 強風域の一部が南九州に差し掛かる程度で、暴風の吹き荒れる沖縄地方で被害は出ていたが、そのニュースはまだ伝わってはおらず、九州北部は雲の出てきた程度だった。

 二十七日、朝の九時に源蔵のクラウンは絢を乗せて熊本市を出た。
 高速道路で一気に北九州を目指す手筈だったのだが、いつの間にか強風域は九州全土を覆っており、福岡市に付く直前にその先が通行止めになったことがラジオで流れた。
 やむなく一般道へ降りたが国道は渋滞しており、
「裏道を抜けるか……」
 土地勘のあった源蔵は、久山町から県道を通り新犬鳴トンネルを抜けて北九州方面を目指した。
「お父さん、電話を貸して」
 この年の四月に、初めて実用的なサイズ感を持った携帯電話が発売されたが、源蔵のそれはその最新式の物だった。
「……もしもし、久埜?」
「はい」
「博多まで来てたんだけど、高速が通行止めになったんで父のクラウンで下道から向かってる」
「そう、気をつけて。私、今からホテルに向かうよ」
「分かった」
 一瞬、沈黙があった後、
「あれっ? 今、車の中から掛けてるの?」
「そう」
「車載? それともひょっとして」
「そうそう、ムーバ。父のだけどね」
「うわっ、いいなあ」
「安くなったら、そのうち買おうと思う。というか、絶対買う」
「私も」

 十二時頃。
 「ミレイユ」は、急に侵攻速度を速め時速五十五キロメートルという猛スピードで、長崎方面へ向かっていた。この時、既に九州の西半分は暴風域に入り、渦の中心が近づくにつれ、甚大な被害を発生させることになる。

 運転している源蔵は、だんだんと台風と追いかけっこをしているような気分になってきていた。車は既に北九州市の八幡西区に入っており、小倉はもうじきだったが、さらにショートカットして、小倉南区へ抜ける峠道を選んだ。
 曲がりくねった登りの道をクラウンは堅実に登っていったが、途中で雨が激しくなってきた。
 上の方で渦巻く風のうねりが感じられる。天候は激変し、源蔵はまさかこんなに早く暴風域が近づいて来るとは予想できていなかった。
 山の反対側で民家の屋根瓦の一枚が剥がれ、風に巻き上げられ、揚力が発生し普通では考えられない距離を飛んだ。
 それは吹き下ろしの風に乗って、源蔵の車への直撃コースへと乗ってしまった。




いいなと思ったら応援しよう!