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「ミレイユの右へ」55

第五十五回 予感



 源蔵の車は五メートルほど叢の上を滑り落ちた後、杉の木に阻まれて止まっていた。
 ぶつかった衝撃で転覆しかけ、しかし車体は破損したがそのまま持ちこたえた。
 丁度、崖の始まるぎりぎり手前の尾根である。それでもかなりの傾斜があり、下の方は車が上ってきた道路の擁壁へと続いているようだった。つまり、また崖である。
 車体は右側を下にして斜めになっていた。絢は恐る恐る自分の体を探ってみた。
 打ち身はあったが、幸い怪我は無いようだった。
 源蔵は意識が戻らず、ぐったりとしている。側頭部に傷があり、何か固い飛来物がそこに当たったのだと思われた。
「お父さん!」
 盛んに声を掛けるが、やはり返事はない。揺さぶるのは頭の傷だと危険だと思われたので出来なかった。やむなく自分のハンカチで止血帯を作って、それをどうにか巻いた。
 車体が歪んで一層狭くなった車内で、その後這いずり回って携帯電話を探した。
 後席の床に飛んでいたそれを見つけたときは安堵したが、110番に掛けても反応が無く、自分が電波が届かないところにいるのだと分かって、絢は暗然となった。

「遅い……」
 荒れ狂う天候と、ホテルの玄関の辺りを代わる代わる見ながら、久埜は酷く不安になってきた。
 絢達はどこにいるのか?
 ひょっとしたら、どこかに一時避難しているのかもしれないが、それにしても……。
 電話さえ掛かってこないのが、さらに嫌な感じだった。
「まだ来ないのか?」
 源さんが声を掛けてきた。打ち合わせは終わったらしい。
「……来ないんです。……何というのか」
「……」
「嫌な予感が……」
 すると、源さんはその言葉に驚いたような顔をし、
「そうか。それじゃあ、何とかして助けに行かないといけないな」と、妙にあっけらかんとした声を発した。
「背広じゃ何も出来ん。着替えてくる」
 と、そのまま自分の部屋へ向かった。
 涼子さんが何がどうなっているのか分からない、といった表情で、後を追った。
 久埜も訳が分からなかったが、
「源さんは、前の奥さんを事故で亡くしているんですよ」
 傍にいた真史が、ボソボソと低めた声で説明を始めた。
「何でも、いつも電車で行くところに、その日に限って何故か高速バスで行ってみたいと奥さんが言ったそうなんです。その時に、非常に嫌な予感を覚えたそうなんですが、気のせいだと思って止めなかった。……結果、高速バスは追突事故を起こして数人が死亡。その中に奥さんが……」
「……」
 そんなことは初耳だった。
「一緒に店を開くことが二人の夢だったそうで……。一時は落ち込んで、板前もやめてしまって、何でも酒代だけあればいいって、畑違いの窯業の日雇いに行って、コークスの燃え殻を突き崩すような仕事をやってたって言ってましたねえ。……だから、『嫌な予感』を放っておくのはもう嫌なんでしょう」

 この日の午後に入り、「ミレイユ」の強風は常軌を逸し始めた。
 熊本の阿蘇では瞬間最大風速60.9メートルを記録し、それは数多の電柱や信号機を倒壊させ、小学校の屋根を吹き飛ばし、熊本城の長塀を薙ぎ倒した。
 屋根瓦も飛散させて怪我人を続出させ、山間地では植林された木々を面で倒して壊滅させ、その風倒木の量は年間需要量で割ると五年分を優に上回った。
 安否確認の電話が急増し、回線がパンクした。夕方からは完全に繋がらない状態となり、停電も相まって情報はラジオからしか入手できない状態となった。

 ロビーで、せわしなく立ち話が始まった。
「さっき、そこで電話している人に訊いたら、まだ携帯電話は通じているらしい」
「国道は渋滞しているって話だから遅くはなるだろうけど、電話は通じるはずですね」
「じゃあ、どこかで近道したかもな」
「源蔵さんは、土地勘があるんですよね」
「福岡からだと……お前ならどうする?」
「高速は使えないから……ええと。……あ、山越えの道がありますね」
「ああ、あの貯水池に抜ける道か。……確かに、あの辺は携帯なんかまだ通じそうにないな」源さんは頷くと、
「行ってみよう。車を出してくれ」と、言った。
 久埜は割って入った。
「私も連れて行って下さい」
「いや、そりゃ駄目だ。危険だ」
「ここは任して、待っていて下さい」
「行きたいんです」
「だから、そりゃあ……」
「行かないと……後悔しそうなんです」涙が滲んだ。
 考えたくもないが、先ほどの真史の話の影響で最悪のことも思い浮かんでいたのだ。
「そんなにか……」
 源さんは困り果てたようだったが、
「うーん、まっ、しゃあねえか」と、何かを切り替えたような表情になった。
「いや、ちょっ、正気?」涼子さんが慌てていたが、
「俺たちが守るさ」
「それ、格好いい、なんて思えないわ。話を聞いていたら、全部勘だけじゃないの」
「こういう時の勘を馬鹿にしちゃいかんのだが……話せば長くなるから、真史、行くぞ」
「もうっ」
 三人でエレベーターで地下駐車場へ降り、あの真史のステーションワゴンに乗り込んだ。
「本当に、頑丈な車を買ってよかったですよ」真史が溜め息をついた。
 エンジンが掛かると同時に、車載ラジオが台風情報を伝え始めた。
「九州全域が台風の危険半円に入っている。より暴風に威力が増す。警戒するように」と。
 その危険半円とは台風の右側のことだ。絢と私達は「ミレイユ」の右側で、今お互いを求め合っているのだ……。




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