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「ミレイユの右へ」30

第三十回 多視点



 夜になり、久埜は自室の机に向かい、苦手な数学の復習をしていた。
 仕方なくやっている感じなのだが、まあどうにか肝心なところは理解できたと自己判断して一息つく。
 参考書の向こうに、買い置きをしてあったりんごが一個置いてあり、暫し手にとってそれを見つめた。
 木村先生の家でのことを思い出す。
 ゴッホの画集は、先生のアトリエに山積みにされていた雑多な本の中にあった。
 「りんごのある静物」と題されたその絵は、青色の織物の上に大小のりんごが無造作に置かれているものだった。
 独特の長いストロークで描かれたそれは、背景がまるで海原で画面全体が大きく脈動しているようだ。
 肝心のりんごは、最初、不格好なトマトみたいに見えたが、少し離れてみるとやはりりんごである。
 その中のぷっくりとした一個がこちらを向いているようで、
「あ、『可愛いりんご』だ」と思った。
 木村先生が、
「りんごの絵と言えば、セザンヌのこの絵の方が有名ね」と言って、別の画集を開いて見せてくれた。
「りんごとオレンジ」というその絵は、やはり織物の上に山盛りの果物が置かれた絵なのだが、こちらは背景がしっかりと描かれている。しかし、果物は粒ぞろいのまん丸いものばかりで、辛うじて中央のこちらを向いた一個が「やや可愛い」気がした。
「ゴッホの方が好き……というか、好みな気がします」
「まあ、どっちかというとセザンヌのこの絵の眼目は、多視点にあるからねえ」
「多視点?」
「果物の乗ったお皿と台付きの器の向きがおかしいでしょ?」
「……そう言えば」
「いろいろな向きから見たものを一枚に凝縮して描いているのよ。キュビズムの元祖かな。そして、おそらくその工夫の全ては、この中央にある一個を際立たせる為ね」
「ああ、それで可愛かったんだ」
「可愛い?」
「いえ、何でも……」
 ……なるほど、多視点か、と反芻してりんごを持ち替え、明かりに当てて眺めてみる。
 一個のりんごでも、いろいろな視点から見るとそれぞれ表情が違う。
 それを一枚の絵に落とし込もうとしたのか。
 セザンヌ、凄いなあと思い、でもゴッホのそれには有無を言わせない迫力があったとも思った。

 六月になり暑くなってきた。
 部室に輪切りにしたライムを持ち込んで写生していると、絢が何だか硬い表情をしてやって来た。そして、真っ直ぐ木村先生のところへ行き、
「森茉莉さんが亡くなったそうです」と、言った。
「えっ!」と、木村先生は本当に驚愕そのものといった表情をした。
「本当?」
「さっき見た図書室の新聞に載っていました。先週のことらしいです」
 先生は慌てて新聞を見に行ったが、誰か二人の身近な知り合いなのかと思って聞いていた久埜はほっとした。
「誰?」
「作家さん。森鴎外の長女さん」
 文豪の娘で作家だと言うことは分かったが、そもそも森鴎外も読んだことがなかったので、全くピンとこなかった。
 考えてみれば、鴎外どころかほとんど小説というものを読んでいない。
 だが、この二人にとっては何か大事な人物のようだ。熱心なファンなのかもしれない。
 しかし、絢がそうなのだとは全然知らなかった。
 ……やっぱり、人のことも多視点で考えるべきなのか?
 などと思う。人間の悩みのほとんどは人間関係の悩みなのだと何かで読んだ。
 身近な人物の思わぬ一面に驚かされることもあるだろうし……。いや、既にいろいろ驚かされたが、何か予想外のトラブルに発展することもあるかもしれない。
 将来に備えるべき知恵のひとつとして、覚えておこう、と思った。
 絢に訊くと、森茉莉は耽美な小説も書いていて、それが例の少女漫画の源流として確固たる位置にいるのだという。
「もう、何というのか、スタイリッシュなのよね」
 熱心に力説されたが、読んでいないのでよく分からなかった。

 翌日の放課後は、家の者が出払ってしまって店番となった。
 常連の客がちらほら出入りしていたが、比較的暇である。カウンターの内側にある小さな流しに俎板を持ち込み、ペティナイフでレモンを切って空いた時間を潰していた。
 例の独学のカクテル・デコレーションは、いつの間にか独自に進化しており、グラスの縁に固定するのはもちろん、形状もいい感じになってきていた。
 さすがにコップでは様にならなかったので、何種類かカクテルグラスも購入していたが、脚(ステム)の付いたショートドリンク用のそれにレモンの飾り切りを付けてみる。
 ……なかなか美しい。と、自己満足してにやにやしていると、
「なかなか美しいな」と、客から声が掛かった。
「うん、久埜ちゃんもなかなか別嬪になってきた」と別の客。
「いや、グラスのことだ」
「何だ、変だと思った」
 酔っ払いの馬鹿笑いが起こったが、久埜が睨みつけると皆黙った。
「君それ、もうバーテンダーの修行をやっているの?」
 最初声を掛けてきた客が、えらく真面目な表情で尚も訊いてきた。六十前後の、恰幅のいい男性である。
「いえ、ただ単に好きでやっているだけです」
「そうなの。そりゃ面白い」
 その客は、時々出入りしていたがビールを一本空けるとすぐに帰ってしまうので、会話をしたことは無かった。
「……ああ、私はこういう者でね。バーとかキャバ……うーん、何というのかな。……いろいろ夜の店を経営している」
 貰った名刺には、「大慶商事 代表取締役社長 赤星静次」とあった。




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