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「ミレイユの右へ」63
第六十三回 イルカの日
篤君の誕生会も終わり、片付けが済むと早紀はバイクのシートバッグにお土産の梨をぎゅうぎゅうに詰め込んで帰って行った。
また静かな淡々とした日々に戻るんだなあ、と思うと久埜は少し寂しかった。が、いろいろ思いがけないことが起こって、ひょっとしたら私の今現在は、楽しい青春の部類なのかもしれないなとも思う。
クシャナ殿下は子供達にずっと纏わり付かれ、散々遊び回りどっと疲れた様子だった。
「モテモテだったね。大丈夫?」
「いや、何というのか……実に、楽しかった」
「え? それは、良かったわね」
何だか口調が改まっているというのか、言葉に変な重みがあった。
そう言えば、絢は一人っ子だし、あんな風に年齢の離れた子達と遊ぶ事なんてないんだろうな、と思った。
自分も末っ子だし、弟や妹はいないわけで、まあ似たようなものだけれど、うちの兄なんて大きな弟のようなものなので、ずっと遊ぶ相手には不自由しなかった。きっと、その辺で差があるのかもしれない。
絢は何か深く考え込んでいたが、顔を上げると、
「急に、学校の先生になってみたくなってきた」と、言った。
「ええっ?」
昨日まで言っていたことと、全然違うじゃないか。
「何かで読んだんだけど、ある人が海で泳いでいるとたまたまイルカがやって来て、丸半日遊んでくれたんだって。それから、ずっとその楽しかったことが忘れられなくて海洋生物学者か何かになったのかな。……きっと、それと同じ様な気分」
……妙な説得力があった。
絢は元々木村先生の影響を大きく受けてきたわけだし、人にものを教えるのが実に上手なのは毎日痛感するところだ。
教師向きだなあ、と思ったことも何度かあったかもしれない。
「それなら、進学しないと」
「……帰ってから、相談かな」
夕食後に、これまたダンボール箱で大量に届けられた梨を剥きながら様子を窺っていると、絢がすんなりと話を切り出した。
本気なんだ……と、思う。
こういう切っ掛けって、そういうイルカ的なものなのか。
――本当に、そういったものなのか?
「うーん」
絹子さんは少し考え込んで、
「実家は頼れないし、ぎりぎりになるわよ。自分で殆どの学費をどうにかして賄わないと」
「何とか計画します」
話はそれだけで、恐ろしいほどあっさりと絢の進路は決まったようだった。
夜、布団を並べて敷いて横になっていると、絢が寝間着に着替えてきて明かりを消して隣の布団に入った。
絹子さんは次の間で寝ている。
小声なら響かないので、いつも眠るまでしばらく話す。
「先生かあ」
「まあ、以前から選択肢的に考えてはいたんだけど、どうも上位には来なかったのよね」
「よっぽど楽しかったのね」
「楽しかった。……まだドキドキしている」
布団の中に絢の手が入ってきて手首を捕まれた。
「あ、胸に手を当ててドキドキを感じさせるとか、そういうのはいいから」
「……ケチ」
何がどうケチなのか。いや、ケチなのかもしれないが。
「そういうのは無理って言ってるでしょ」
「分かってますよ」
……ただまあ手くらいは握っていてあげよう。疲れているだろうし。……決断の日でもあったことだし。
指と指がしばらく絡んでいたが、やがて動かなくなり、絢は眠りに落ちたようだった。
翌日、午前中また園で手伝いをしていると、シーズン前の空いた駐車場に、黒塗りの見慣れない高級車が滑り込んできたのが見えた。
「誰だろう?」
「さあ?」
運転席の人は動かない。後席から皓髪でダークスーツの男性が降り、もう一人やはり年輩の小柄な女の人が反対側から出てきた。
二人はゆっくりと坂道を上がってきて事務棟に入っていく。
しばらくして園長と一緒に出てきて、こちらに向かってきた。
途中で、「あ、あの二人です」と園長が話しているのが聞こえた。
「え? 私達に用事?」
だが、さっぱり用件が分からない上に全く知らない人達だった。警戒気味に斜面を降りていくと園長が何か言おうとした。
「えー、こちらは」
だが、二人は非常に興味津々の目でこちらを見て、遮るように挨拶をした。
「こんにちは」
「はじめまして」女の人はにこにこしている。五十歳くらいだろうか。
「私は『こども病院』の院長の藤堂と言います」
「総婦長の金城です」
え? そんな人達が何で?
疑問で頭が一杯だったが、
「何でも、食物アレルギーのあるお子さんに果物のケーキをお出しになったとか」と、言われて、幾分謎が解けた。
「あ、ええ。はい」
だが、昨日の今日だが? それに、こども病院って福岡市にあるんじゃなかったっけ。
「父兄に開業医でパソコン通信をやっておられる方がおられまして、その医療フォーラムで昨晩ちょっとした話題になってましてね。そういう疾患の子がうちの病院にも今たくさんいるので」
「ご指導を賜れないものかと」と、言われて久埜は心の片隅で「イルカ」の第二波の予感を覚えた。