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「ミレイユの右へ」26

第二十六回 デッサン




 入学して暫く経ち、ようやく制服にも慣れてきた。
 新しい教科にはどうにかついていけて一安心と入ったところだったが、部活の方は予想通りに難儀が始まった。
「とにかく、まずはデッサン」
 とのことで、石膏で出来た球体とか立方体をひたすら眺めて画用紙の上の線画に影をつけていく。
 しかし、真面目にやったことなどないので、線の引き方、そのカーブのつけ方、線の終わり方など全て手探り状態である。
「こ、これは……」
 この作業は、実に基礎力が問われる。美術系の「真史」がもしこの世に存在するのならば、嬉々として何時間でも没頭できるのに違いない。だが、自分にはどうも向いていないのではないかと思えて仕方がなかった。
 何でかというと……純粋に面白くないのである。絵が根っから好きではないと、ダメなのではないのか。
「あら、かなり上手くなったじゃない」
 絢が久埜の画板を覗きに来て、そう言った。
 ……絶対、上達などしていない自信があった。
 絢は、ひとを褒めて伸ばすタイプなのか? ひょっとして、教師に向いているんじゃないかなどと思う。
「鉛筆はいろいろ変えてみていいのよ。影のところは、こっちの……」
「絢ちゃん」
「何?」
「面白くないです」
「また身も蓋もないことを」
「……だってさ」
 その様子を、近くにいる二年生の先輩二人が窺っている気配があった。こちらは花瓶に刺してあるナデシコの切り花をデッサンしていたが、鉛筆をリズミカルに動かしながらも、どうも聞き耳を立てているようだ。
 これは、まずいことを口走ってしまったかなと久埜が怖じ気づいたとき、
「先生」と、その内の一人が口を開いた。
「そろそろ、面白くないです」
「私も同じです」と、もう一人。
 美術教室の大きな机で、小テストの採点をやっていた木村先生が顔を上げた。そして、人差し指で眼鏡の端を持ち上げながら、
「……それなら、面白いことをしないといけないわね」と、言った。
 久埜はこの会話の成り行きに首を傾げていたが、先生は自分用と思われるスケッチブックを棚から二つ取り出して、頁をめくった。
 開いた一冊を黒板の粉受けの部分に立てる。
「うわぁ」皆が唸った。
 それには、絢をモデルにした首から上の人物デッサンが描かれていた。
 さすがというのか、実に流麗なタッチで、しかも生き生きとしている。
 久埜は、プロが描いたような高精細な鉛筆絵は初めて見たので、迫力に押されて息を飲んでいた。
「……凄い、ハイレベル」
 絢がにんまりとして、
「モデルが?」と、訊いた。
 先生が、もう一つの方をその隣に並べた。
 こちらは、縮尺も同じ様な人物画だが、明らかに漫画系のタッチだった。絢ではなく、架空のキャラクターのようだが、かなり精細な描画で、雑誌の扉絵とか見開きに使えそうな感じだった。
「さて、この二つの違いは何でしょうか?」と、先生。
「池尻さん、分かる?」
「え? ええと、現実と……漫画?」
「そうなんだけどね」
「デッサンと、それをデフォルメしたもの?」と、絢。
「いえ、もっと単純」
 先輩二人もそれぞれ意見を言ったが、久埜達のそれと大差なかった。
「この二つの違いは、片方は対象をよく見て描いたもの。もう一つは何も見ないで描いた、ということ。漫画って、頭の中のものを描かないといけないのよね」
 絢と先輩二人が、同時に大きく頷いた。
 さては、この人達全員漫画を描いているな、と久埜は思った。
 学校は漫画の持ち込みが原則禁止だから、回り回ってこういうことになっているのか。
 ……しかし、何だか普通の部活よりは楽しげなことになっているのかもしれない。
「しかも、漫画だと描く対象を俯瞰したり、下から眺め上げたり、視点がくるくる変わるから、それも想像できないといけません。だから、結局対象をよく観察しておかないと、それに生かせないことになります。デッサンの時間を活用してください。それがいずれ役に立ちます」
 なるほど、と久埜は思ったが、しかし別段自分は漫画を描くわけでもないので、それはどうなんだろうとも考える。
 いつか、何かの役に立つ時が来るのだろうか?

 その後は、しばらくまた静かなデッサンの時間に戻った。
「気分、変えてみる?」
 絢がそう言って、石膏の胸像を抱えて持ってきた。
「ご存じ、マルクス・ウィプサニウス・アグリッパよ」
「……やっぱり、あるんだ」
 久埜は、以前主人公が高校の実技試験で四苦八苦する話を何かで読んだことがあった。 このアグリッパ像のデッサンが課題だったのだが、「あれも漫画だったなあ」と思いながら、目の前の像に目を落とす。
 思慮深そうな古代ローマ人が物憂げにどこかを見ている。
 像を見る場所を変えると、アグリッパの表情が微妙に変わる気がした。
 多分それが、こういう胸像デッサンの廃れない理由なのだろうと直感したが、だからと言って、どうものめり込めない。
「……デッサンの対象って、持ち込んでもいいよね?」ふと、思い付いた。
「構わないわよ。あの花だって……」
「花が良ければ、果物だっていいよね?」




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