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「ミレイユの右へ」36

第三十六回 涼子さん


 小花を散らした縞の着物に、ニットの羽織という身繕いのその女性はこちらを向くなり、
「あら、お二人さん、お久しぶり」と、屈託無く声を掛けてきた。
 たったあれだけの出会いだったのに、しっかりと覚えられていたらしい。
「えっ……お久しぶりです」
「菜乃佳が何だか楽しみなお客が来るって言ってたんだけど、まさかのまさかね。将来……食品関係に進むわけ? それにしてももう実地?」
 二人の格好と、整然と並べられたフルーツ類を互い違いに見て、目を丸くする。
「……いえ、話せば長いというか」
 久埜は、うまく説明できずに苦笑いしか出来なかった。
 そこへ菜乃佳さんが戻ってきた。
「涼子姉ちゃん、またそのまま厨房に入って来ちゃ駄目だって」
「ここの線を超えなければいいんでしょ」
 和風と洋風の格好をしたよく似た姉妹の対峙は、なかなか印象的だった。
 ……涼子さんって言うんだ。
 颯爽とした感じで、スタイルもいい。……何となく、いずれ絢もこんな感じの女性になるんだろうなあと考えてしまってから、はっとした。
 この人は、まだ絢のお父さんとの関係を続けているのだろうか?

 ワイングラスの中へのフルーツの盛りつけは、最初難儀した。
 パフェの印象があったので、何種類かが必要だと思い互い違いに果肉を並べてみたが、どうもぱっとしない。
「いっそ、いろいろ入れずにシンプルにした方がいいんちゃう?」
 と、早紀が言い出し、それもそうかと思って、カクテルデコレーションの要領で果皮の立ったオレンジの大きめの実を縁に飾ってみた。
「あ、何かいい感じ」
 切り出したメロンを反対側に滑り込ませると、色味も良かった。
 爪楊枝だと貧相になってしまうので、カクテルピックで何か出来ないかなと久埜が考えあぐねていると、
「こんなんでどうやろ?」
 カットしたバナナに早紀が丸ごとのイチゴを突き刺して、あっけなく定番じみたものが出来上がった。
 今回は使わなかったが、飾り切りを使ったグラスには、液体、つまりジュースを満たしてもいいだろうなと思った。
 他にも細々飾り切りを入れたりして、どうにか全体が出来上がった。
 時計を見ると午後二時半。
 言われていた作業時間は守れたようだった。

 三時少し前、休憩室らしきところでお茶を頂いていると、奥の扉が開いて靴入れから内履きに履き替える音がしだした。それも、結構な人数のようだ。
「ここの人が出勤してきたんだろうね」
 と、二人で思っていたが、
「社長が来られました」と、菜乃佳さんが真剣な表情で呼びに来た。
 厨房に戻ってみると、赤星社長の他にダークスーツ姿の、全然厨房員とは思えない身なりの良い男の人達が、二人で作ったフルーツ盛りの周囲を二重になって取り囲んでいた。
 何だか装いの良い、クラブのママ風の女性達もいて、一角で談笑している。涼子さんも少し派手な着物に替えて、その中に混じっていた。
「どう思う?」と、赤星社長。
「ナイトクラブでは需要があるかと」
「女の子受けしそうですしね」
「見た目の付加価値がなかなか良い」
「付加価値即ち優位ですからねえ」
「ホストクラブでも、これはいけるのでは」
「ここのフルーツ盛りだと現着まで二十分もかからないけど、あとは所要時間ですかねえ」
「原価は……ざっくり、あんまり変わらないな」
「それは素晴らしい」
「ワイングラスはいいですね。ディスコでも使えます。乾杯して盛り上がれるし、歩き回るお客にも配れる」
 社長一人だけで見に来るのだろうと思っていた久埜は、開いた口が塞がらなかった。
「おや、作者が来たようだ」
 赤星社長が久埜を見つけた。目が合った途端、思わず口から悲鳴が出るかと思った。
 輪の中に誘われて、赤星社長の横に立った。
「えー、まだ中学生である上、社員でもないのだが、昨今の好景気の中で我がグループの伸び代を考えるうちに、この分野での協力をお願いするのが必須と確信して、三顧の礼を尽くし、この日となったわけだ」
 中学生相手の大仰な言い方に、女性達からくすくす笑いが漏れた。
 小声で、「自己紹介を」と促された。
「……池尻久埜と言います。西中学校の二年生です」
 他に言いようがない。緊張して心臓の鼓動が耳で聞こえるのではないかと思った。
「おお、儂の母校や」
 年配の男性が声を掛けてくれて、幾分動悸が楽になった。
「昔から、市井の天才を輩出するんで有名やで」
 隣にいた人が、「誰?」と訊いて、
「儂やないかい」と掛け合って爆笑となった。
「あー、では、彼女のデザイン採用ということで異論はないな?」
「異議なし」と言う声と、拍手が湧いて、その後試食が始まった。

 厨房の始業時間は、どうも社長が四時に遅らせていたみたいだった。
 ようやく解放されて、休憩室のソファで久埜がぐったりしていると、
「久埜は、市井の天才やったんやな」と早紀がわざと嫉妬深そうな表情を作って言った。
「そんなわけないじゃない」
「いやー、あんだけ褒められてそう言うか」
「うーん」
 しかし、今まで一人だけで拘ってきた趣味が思わぬところで人の役に立ったのは嬉しかった。
「とにかく、無事に終わって良かったよ……」
 菜乃佳さんが部屋に入ってきた。
「お疲れ様。おなか空いたでしょ。姉と食事するから一緒に食べましょ」
「え?」
「と言っても、この上の階の姉のお店で店屋物取るんだけどね。何だかあなた達と話をしたいみたいだし」



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