「ミレイユの右へ」31
第三十一回 三番館
誰かから直接名刺を貰ったことなど初めてだったのだが、その時は特段の感慨は無かった。しかし、飲食業の偉い人から直接褒められたのは妙に嬉しかった。
赤星社長は、話を聞いているとかなりの洋酒通のようで、この飾りは何々というカクテルに合うと詳しいことも言ってくれるのだが、酒そのものについての関心の薄い久埜は、どうもついていけないでいた。
会話の途中で察したらしく、
「また面白いデコレーションが出来たら見せてくれ」と、言い置いて帰って行った。
中学校に入ってから、時間の経つスピードがどんどん速くなっていく。
授業と部活と生活。
そのうち二つには絢がいて、大半の時間を一緒に過ごしているように思えた。
けれども、それはごく当たり前の日常としてとらえるようになっていた。
早紀は隣のクラスなのだが、部活も違ったことで、吃驚するぐらい顔を合わさなくなった。
これではいけない気がして、ある土曜の夕方、家の電話から連絡してみた。
これは店のものも兼ねているので、店舗区画の中にある。誰かが聞き耳を立てていたら丸聞こえなので、噂話などは出来なかった。
四月から始まった携帯電話サービスというものが利用できたら、自分の部屋で何でも話せるんだろうなと思ったが、それは途轍もないくらいの高嶺の花だったので考えるのをやめた。
電話には、早紀の父親が出た。取り次ぎをお願いすると、すぐに早紀が近づいてくる気配がした。
「久埜? どうしたん?」
「あー、明日時間あったら、ちょっと遊ばない、かなあ、と思って」
「それを電話で言うん?」
早紀らしからぬ、何だか冷たい感じがして、ちょっとドキッとした。
「歩いて何分もかからんのに」苦笑いをしている様子で、少しほっとする。
「まあ、確かに最近忙しすぎたわ。映画行かない? 見たいのがある」
「中学生、入れてくれる?」
「三番館だから、あまり煩くないよ」
正午に久埜が迎えに行くと打ち合わせて、電話を切った。
早紀はいつの間にか背が伸び、バレーで鍛えているせいかスタイルも良くなっている気がした。
これが運動部の怖ろしいところだと思いながら、連れ立って歩いて行く。
街一番の繁華街の裏手側、一本入った通りに、うらぶれた小さな映画館があった。
封切り興行はなく、プログラムは自主上映のようだったが、料金が安いのでお目当ての作品を見逃した映画ファンには重宝されていた。
入り口上の手書きのペンキ看板には、「王立宇宙軍 オネアミスの翼」とある。
「アニメ?」
早紀のことだから、昔から好きな香港のカンフー映画ではないかと思っていたが、違っていた。
「何だか訳が分からないけど凄いらしいよ」
「何それ?」
「ある人が言っていた」
「ある人?」
「ある人だよ」
「ある人って?」
「アニメ好きの……」
「アニメが好きで、それから?」
「行くよ。始まっちゃう」
その「ある人」のことが猛烈に気になったが、つい言葉の端に漏らしてしまうところや、早紀の反応などから、まだ多分片思いなんだろうと推理して、もう黙っておくことにした。
映画自体はアニメなのに何だか大人向けのストーリー展開で、確かに少し訳が分からなかった。けれども、作画に関しては「よくもまあ、こんな複雑な絵を上手に動かすものだ」と、久埜は素直に感心した。
これはデッサン力の先に、動きの未来予測力が必要なのではないか。更にはどこにも無い事物を絵にする想像力が……。
見終わった後、帰り道の途中にあるフルーツパーラーの奥まった一角で、パフェを突きながら久埜はそんなことを話した。
「あれを作った人達は、元々はアマチュアらしいよ」
「ええっ?」
「まあ今は会社になっているらしいけど。本当に好きなことをやっているから、あれだけ手が掛けられるんだろうね」
……何となく美術部のことを連想する。もしあのまま何か大袈裟なものに繰り上がって行けるなら、きっととんでもないことをやり始めるのかもしれない。
想像して思わず笑いがこみ上げる。
が、早紀は逆に暗いトーンで、別の話を始めた。
「絢の家のこと知ってる?」
「え?」
「絢、何も話さない?」
「いや、何にも」
「今、絢の両親は別居しているんだって。お母さんの方が家を出て、アパートを借りているはず」
そんなことは、ちっとも知らなかった。悩んでいるそぶりも見せなかったので、全然……。
「絢は、お母さんと同居のようだから、きっと電話番号も変わっていると思うけど」
「毎日顔を合わせるから、気づかなかったよ」
「でさあ」
「……うん」
「これがもし離婚なんてことになったら」
「……離婚」
「お母さん、絢を連れて実家に帰っちゃうかもしれない」
「……実家って」
「……青森だよ」