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慰めの道後ビール(飲み物という名の冒険④)

温泉に行ってしまおう。
体も汗ばんでいる。
部屋は狭く、タバコの匂いが染み付いている。
こうなったら温泉だ。
私は夕食を終えると、その足で路面電車に乗り込んだ。

安宿暮らしは二度身体を洗う

夏真っ盛りの八月半ば、私は松山にいた。
ちょうど、広島からのフェリーで到着したばかりで、文字通り、右も左もわからなかった。

お盆の真っ只中だったため、松山のホテルの価格は上がっており、選択肢があまり多くない。1番安いホテルの1番安い部屋をネット予約した。

ホテルの受付にいたおじさんは感じが良かったが、部屋の、特に浴室が臭う。
タバコの残り香が染み付いている。仕方がない。こういうことで文句を言うつもりはない。むしろ、銭湯などを探すチャンスだ。

私は港でもらった地図を開いた。
すると、市内から30分もかからずに道後温泉に行けることを知った。しかも、割合遅くまで営業している。

道後より戸惑いを込めて

私は夕食に出る際に意気揚々とトートバッグに入浴セットを詰め、松山市内に出た。
夕食を庶民的な居酒屋で済ませ、オレンジ色、もといみかん色の路面電車に乗り込む。目指すは道後、温泉の街である。

みかん色の路面電車

道後には30分もかからずにたどり着いた。時間は大体夜の9時。湯浴みにはちょうどいい。
私は商店街を勇んで歩いた。

道後温泉には三つの湯がある。一つは元祖の道後温泉。もう一つは銭湯のような雰囲気の椿の湯。そして最後は飛鳥時代をコンセプトにした新しい飛鳥乃湯泉。
もちろん目指すは元祖だが、椿の湯や、飛鳥乃湯泉も気になる。美しい名前である。梯子してもいいかもしれない。

道後温泉本館。工事の覆いっぱいに絵が描かれている。

改修工事中の道後温泉本館はアーティスティックな覆いで覆われているが営業している。
入り口に回ると人がたくさん待っていた。並んでいるんだろうか。

私は係の人に
「温泉に入りたいのですが…」
と話しかけてみた。
「整理券はお持ちですか?」
「いえ、まだです」
どこで整理券をもらえるんだろう。そう言おうとした時、係員が口を開いた。
「本日はもう配り終えていまして…申し訳ございません。また明日お越しください」

仕方ない。私はいそいそと、飛鳥乃湯泉に向かった。
ところが結論から言えば、飛鳥乃湯泉も、そして椿の湯も、整理券は配り終えていた。

ここ最近のご時世の関係か、初めからそうだったのかはわからないが、どうやら道後温泉では整理券を夜の7時前には全て配り終えてしまうらしい。
調べない旅が裏目に出たわけだ。親譲かはわからない無鉄砲で昔から損ばかりしている。

絶望に打ちひしがれ、かと言ってこのまま手ぶらで帰るつもりにもなれない。
私は飛鳥乃湯泉の前庭をうろうろするしかなかった。そういう客は他にもいて、皆うろうろしている。

そんな時、一軒の店が目に入った。
テラスになっていて、そこでカップルがビールを飲んでいる。飲み比べのようでいくつかのグラスに色の違うビールが並んでいる。
間違いなく湯上がりの客のための店だが、なんとも旨そうで仕方がない。

慰めの報酬

メニュー表を見ると、道後ビールという銘柄のビールが並んでいる。どうやら道後のクラフトビールの販売所のようだ。
坊っちゃん、マドンナ、漱石、そして通常の道後ビールの何種類かが置かれている。
道後は、作中では名前こそ出てこないものの、夏目漱石の『坊っちゃん』の舞台の一つとして売っているらしい。

ひとまず、坊っちゃんビールを頼むことにした。
店内はさっぱりとした木の作り。多分新しい店なのだろう。カウンターの奥にいた女性に声をかける。
「坊っちゃんビールお願いします」

お通しのナッツと鶏肉と枝豆をもらい、しばらくすると、明るい黄色のビールがサーヴされた。
カウンターに座り、今夜の傷を癒す。

坊っちゃんビール。
山嵐ビールとか、赤シャツビールとかも作ればいいのに。

坊っちゃんは、さっぱりとしていて、暑い夜にちょうど良い。ドイツのケルシュというビールの作りだそうだ。
ビール片手にいただくお通しもなかなか良い。ビールの直売所だけあって、ビールとの相性を全面に追求している。

飲みやすくてぐいぐい行けるビールは熱い夏の夜のオアシスだ。
だが、オアシスというものが多くの場合旅人の幻想から来るように、ビールも飲んでいれば空になる。
私のビールグラスはいつのまにか空っぽだ。

クラフトビールは少し価格帯が高い。そのため、気をつけて頼む必要がある。
理性が少しでもあるならば、できれば一杯くらいで済ませたい。
「すみません、漱石ビールもお願いします」
今の私に理性など期待するな。

漱石ビール

漱石ビールはいわゆるスタウトだ。黒ビールである。
一口飲むと独特のスモーキーなフレーバーが香る。だが、苦味よりも、甘味が立っている。変な例えで申し訳ないが、コーヒーを彷彿とさせる旨味がある。

ビール片手に窓の向こうの温泉地を眺める。
風呂から出てくる人。入ることができず困ってしまった人。オトナの界隈に繰り出す人。そこには人間模様がある。
ビールにもビール模様がある。飲み比べしたくなるのもよくわかる。
だが、飲む人によってもビールの味は変わる。
今宵の私のビールは、慰めの報酬だ。

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