見出し画像

母の三回忌・「看取り介護」




私の母は
2018.7.11に亡くなりました
ちょうど2年になります

画像1

母は「胆管癌」でした

胆管癌とは胆管の上皮
(胆管内側の表面をおおう粘膜)から発生する
悪性の腫瘍です

────────

気が付いたのは
母がしばらくずっと
「背中から腰が痛い」と、言っていて
ひとまず
整形外科にかかり湿布薬をもらい2週間
痛みが治まらないので
もう一度整形外科へ。

すると
すぐに造影剤を入れMRIの画像診断で
腫瘍がある事がわかりました


それからすぐ
大学病院へ。


────────────────


母の腫瘍は
身体中
あちこちに転移していました
素人の私が見てもわかるくらい…

母も一緒に見ていました
母はぐっと
下唇を噛み締めて見ていました


後日、
私と父が病院に呼ばれ
悪性の癌。ステージ4。
「余命半年」の
宣告を聞きました

そして
母への告知はしないことにしました


────────


母はとてもポジティブで
「治る」
と、思っていた

…いや、、今思えば
そう言って自分に言い聞かせてたのかも
しれないけれど


だからこそ私は
「普通でいること」を
心がけた

・必要以上に心配したりせず。
・「未来」のことも一緒に話し。
楽しく過ごした


────────────────


しばらくして
「抗がん剤治療」をする事になった

母もそれを望み
私と父にとっては
藁をも掴む思いだったから
それしか選択肢がなかった


抗がん剤治療を受けるにあたって
初めの副作用や、様子をみるのに
入院する事になった

その初日に撮ったのが
この写真

画像2


2017.7.19

今思えば亡くなる1年前


────────

この後、
抗がん剤治療を「通院」で受け
何度も何度も、何度も通い…
でも
無情にも転移は進み…


足の大腿骨に転移し
母は痛みで歩けなくなりました


外科の先生と相談し
両足の手術を受けることに。

再度、入院の日が決まったので
その数日前

画像3


2018.4.15

私は知り合いのカメラマンに
無理矢理お願いして
写真撮影をしてもらいました

母には
娘と息子の七五三を理由に。

残したかった
どうしても
どうしても
残したかった


────────────────


入院してすぐに手術を受けました
と、同時に..
抗がん剤治療を受けることが
できなくなって
母の病状は悪化していった

それでも母は
一生懸命リハビリをし
歩行器で歩く練習をし..


そんな母を見ているのも
辛かったけど
母の笑顔に私は救われていた

画像4

2018.6.8


目眩・嘔吐・食欲不振..

毎日、母が食べたい物を聞き
車で片道40分
私は毎日届けた

届けた物もほんの少ししか
食べられなかったけれど..

母の希望は「家に帰りたい」だった
だから
入院中の3回ほど
外泊をさせてもらい
その日は私も実家に泊まり

母をお風呂に入れ
トイレにも付き添い
食べたい物を作った


喜んでくれることを全部したかった


────────────────


入院は長引き
しばらくして私は先生に呼ばれた

「少し前からモルヒネを始めました」
「..あと、どれくらい会っていただけるか..」

と。

私は即答しました

「連れて帰ります」

と。


それからは怒涛の日々だった

先生とのお話を初め
ケアマネージャー
地元の訪問医師
訪問看護

介護ベット..酸素..点滴..


私は淡々とこなした
気を張っていなくては壊れそうだった


・・・・・・・・


そしたらね
ある日また先生に呼ばれたの

「私はあなたが心配です…」
「娘さん..泣いてもいいんですよ..」

その、一言で
私の涙は崩壊しました

大学病院の先生が
家族のことまで気にかけてくれるなんて
思ってもいなかったから───


────────────────


準備ができてすぐ
介護タクシーを手配し
母は自宅に帰ってきました

先生も付き添いで…
大学病院では珍しいらしい
自宅まで..最後まで..見守ってくれた先生

私の涙まで解放して下さり…
今でも、心から感謝しています


────────────────


2018.7.6の夕方に
母は帰ってきてくれました
それから5日間
生きてくれました


その5日間
私は眠ることはできなかった
「母の息」を
確認していたかった

母の尿を排出し
毎日点滴を交換をし
モルヒネを母に打ち
母の食べたい物を
もっともっと作りたかった


…そのうち母は下顎呼吸になりました

「下顎呼吸」とは
死の間際にさしかかってきた時
血圧が低下し
胸郭を使った呼吸が
下顎を使った呼吸に変わる

モルヒネの影響で
意識もどこかへいく中の
下顎呼吸…


見ているのが
苦しかった
苦しかった
とても苦しかった…


────────────────


2018.7.11 21時27分
享年62歳
母の最期の息でした

その数時間前から
父は母の手を握っていた
ずっとずっと握っていた

家族全員に見守られて
母は逝ったのです


自宅では5日間だったけど
余命宣告から1年半
半年と言われながら
1年も長く生きてくれました

画像5


2018.7.12


────────────────


入院する前に撮った写真..
母の遺影になりました
母も気に入って
「100歳で死んでもこれを遺影にしてな」
なんて言ってたよ

画像6


カメラマンに頼んで
ママのワンショットもお願いしたの
私は遺影になる..と思っていたから..

素敵な♡素敵な
母でした


────────────────


『看取り介護』とは

・延命処置をしない
・大切な人の最期の息を静かに看取る
・死亡時間は家族が決める

とっても『覚悟』がいることだった

・・・・・・・・


…もう2年…
…まだ2年…

私は残された者として
生きていかなくてはならない


────────────────

最後まで読んで下さり
ありがとうございます

母のことを残したかった

でも今まで
私の心が..
書くことができなかった
2年もかかってしまった


私の中では
もっともっと、もっと…
怒涛の日々だったけど
こんな風に残せるだけで充分です


ありがとうございました


waki

❤️

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?