見出し画像

不器用なわたしの暗中模索と子育ての話を少し

10年ほど前、ある友達がこんなことを笑いながら話してくれた。

「自分が何に対して恨みに思っているかを知る必要がある。それを知ればその恨みに支配されなくなる。私にとってそれはお金やわ〜ワハハ」

この話は私の中で印象的な言葉として残りました。

最近またこの言葉を思い出していました。自分がいまだに何に対して恨みを持っているかということを考えてみると、それは「教育」かもしれないと思っています。

わたしは70年代、80年代の日本の中産階級の家庭の子供として育ちました。特にわたしが育った滋賀県大津市比叡平は、当時、医者、大学の教授、弁護士、芸術家、会社の社長、建築家、税理士など、世間に評価され、もてはやされる職業についた人たちが大勢住んでいる高級住宅地と言われているところでした。表面的に見ると、私は衣食住に不足なく、教育にも恵まれて育った人に見えるのでしょう。しかし、自分の育った地域の特色について語るとき、いつも胸が苦しくなるんです。不器用なわたしが、あんまりにも「出来すぎた」華やかな人たちの間で育ったことのストレスが走馬灯のようによみがえるからです。

ここで内実を語ると、私の置かれた教育の場は、本当に自分の能力の向きに見合った学習法で学問、スポーツ、芸術を探求する場とは言えなかったし、そのために長いこと暗中模索しました。

学校は「スポーツができる子」「勉強ができる子」「理系が強い子」「文系が強い子」「音楽ができる子」「絵が上手い子」「容姿に恵まれた子」とかラベルを貼り付けて子供に優劣判断を押し付ける風潮が強かった。(こうした能力はお金を稼ぐことにつながるものなので、資本主義の中で生きる私たちにとってどうしようもない根深い思考パターン。誰をも責められない問題です)そして残念なことに思想性の高さや内面の働きを評価する基準はあまり発達していない。

私は子どものころ、人の目に見えやすい形で勉強、芸術、スポーツ、美貌の領域で能力があることを世間に見せることのできないタイプでした。

小学校の頃、仲良くしていた友達と一緒に遊んでいたときに「わたしはバイオリンが得意」「まいちゃん(仮名)はスポーツが得意」「あんたは何の取り柄もない」とバカにされ、ショックを受けたことがありました。

私はテストで点数を取れるタイプではなかったけれど、日常の中で観察していることや、発見したことをフリースタイルの作文で表現することが好きでした。クラスの担任の先生は、それを面白がってくれてクラスの前でときどき私の作文を読んでくれることがありました。友達はそんなわたしのことを評価してくれないのか?と愕然とし、疎外感を感じたのを覚えています。

自分を馬鹿にした友達を責めているのではありません。私自身も立場の弱い同級生を馬鹿にするような目で見て、責められたことが何度かありますから。

テストの点数には表れにくい思想性を評価する文化が希薄であったことで子供たちがストレスを感じていたことに焦点を当てたいだけです。

私の親は二人ともプロフェッショナルな職業人でした。父は弁護士、母は小学校の教員。仕事でかなり評価される人たちでした。両親のような優等生になりたくて仕方なかったのですが、自分の脳は、常識・文字・数字にどれもうまく反応しない構造を持っているらしく、努力をしても、成績は結局、クラスの中でせいぜい中程度。両親のように上位に達することはありませんでした。

辛い子供時代だったよ〜

人の能力にラベルを貼ることにあんまりにも社会が取り憑かれていたために、私自身いまも、自分にも人にもラベルを貼ることに取り憑かれてしまっているのがよくわかる。

私はこどもの頃に、スポーツ不得意、理数系が苦手というラベルを自分に貼りました。親になったときには、いわゆる「出来の良い子供」であるというラベルを自分の子供に貼って、有頂天になってしまう傾向がありました。

二人目の娘のグレースは、わたしとは真逆のタイプで、学校ではオールマイティの優等生を演じてしまえるタイプです(隔世遺伝か?!)

ですが、そんなグレースがラベルを貼るという人間の習慣の悪影響から免れているわけはないのはもちろんです。グレースはバイト先でも学校でも人が期待することが簡単にできてしまう。ところが、褒められて調子に乗ってそのまま突き進んでいると、自分がしたくないことをしすぎてエネルギーが枯渇し、内面が虚ろになるという危険に何度も遭遇。18歳になる頃までには、自分のパーソナリティに疑いを持つようになっていました。

この件についてグレースと英語と日本語のちゃんぽん言語(グレースと話すときの言語)で話し合った結果、グレースは「自分のやれること」と「自分の好きなこと」の違いを明確にする必要があるという結論に至りました。グレースにとってこの結論は新鮮だったようでした。

世間にいるとどうしてもラベルを貼られてしまう。でもそれは脇に置いておいて、自分が人生の中で何を観察し、何に感動し、何が好きで、何を学んでいるかを知っていることが、その人らしくパワフルで感性豊かな大人になっていく鍵かな、と思っているところです。

ダンスは心の傷を癒すヒーリング

あっという間にわたしも50歳になりましたが、あいかわらず学校時代の傷を背負っています。「子どもの頃、もっと自分に合った学習環境が欲しかった。」という不満が、神経組織から湧き上がってくることがよくあって困ってます。

1年半前くらいから通い始めた楽しいダンス教室はこうした恨みを解消するヒーリングの場とも言えるかもしれない。うちの近所には、あらゆるレベルの人に幅広い種類のダンスを提供する近所のダンススタジオWeMoveがあります。このスタジオのコンテンポラリダンス・クラス、バレエクラス、ピラティスに「上達しなくても毎回出席すること」を目標を設定し、通い続けていると自分に対して何年も前に貼り付けた「運動神経が悪い人」というラベルがはがれてきています。

「運動神経が悪い人」というラベルを「すべての人には体と心がある」という思想に置き換えてニヤ〜っと笑って自己満足にひたっている。

この「上達しなくても毎回クラスに出席する」というゴールは、私の中では傑作品。「自分の能力に見合ったゴールを設定する」ということが子供の頃には決して手に入らなかった「精神の余裕」というギフトをもたらしてくれるからです。

人にはこんなに簡単なことがわからなかったの?って笑われるかもしれないですけどね〜

現実的で前向きなゴールなので喜んでいます!

子どもの頃にダンスのトレーニングを受けたことのない私にはぴったりのゴールで、見事そのゴールを達成してきました。それも、私の通っていたピラティス、コンテンポラリ、バレエの先生たちが皆、クラスに出席するたびに、各人が自分にあったやり方で学ぶことを尊重するという、柔軟で慈悲のある態度でいてくれたからです。

コンテンポラリの先生がこんなふうに語ってくれました「スタジオの方針は、すべての人には自分の体と付き合ってきた歴史があることを認めて尊重することです。生徒さんの潜在能力を誰一人としてけして過小評価していません」

あ〜先生たち、本当にありがとう!

コンテンポラリダンスクラスに集まってくるダンスの上級者の生徒さんは、私が地道にダンスに取り組んでいる姿を評価し、励ましてくれる。ビギナーの人は、上級の生徒さんの動き方を見て学んでいる。ビギナーの人同士はお互いを励まし合っている。

子供の頃からこのダンススタジオのように、人にラベルを貼り付け、優劣をつけることに中毒することのない学習環境にいられたらどんなにいいだろうと思う。

大人にもこどももそんな学習の場を必要としている気がします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?