松井江の考察・解釈 前編
刀剣乱舞 松井江の考察・解釈をまとめた記事です。
前編では『松井江が何の物語を持っているか』、後編では『それぞれの台詞や要素が誰のどんな逸話を元にしているか』についての考察・解釈を書いています。
不慣れ故に読みづらい部分もあるとは思いますが、楽しんでいただけると幸いです。
※松井江の性格や台詞をある程度把握しており、松井江の考察に興味がある人向けの記事です。松井江という刀剣男士の詳細な説明は省いています。
※個人的な解釈です。誰かの解釈を否定したり、自分の解釈を押し付けたりする意図はありません。
※歴史に詳しくない者がネットの情報をもとに書いたものです。参考程度に読んでください。
はじめに
刀剣男士の考察をしているうちに、最終的にたどり着くべきは
「刀剣乱舞がこの刀剣男士で何を伝えたいのか」ではないか?
という考えに至った。
この記事では
「松井江が何の物語から顕現しているのか」を考察し、
「刀剣乱舞が松井江で何を伝えようとしているのか」を導き出していく。
何の物語から顕現しているか
松井江が何の物語から顕現しているのか。
結論として、松井江は八代城主の物語から顕現していると考えられる。
八代城とは、肥後国八代郡(熊本県八代市)に築城された城のことだ。
八代城と呼ばれる城は以下の三城。
・古麓城(麦島城築城に伴い、廃城)
・麦島城(小西行長の命により建てられる。地震により倒壊、廃城)
・松江城(麦島城の廃城後、加藤氏により建てられる。現在、八代城跡として整備され残されているのはこの城)
ここでは、二代目八代城である麦島城以降の城主、
小西行長、加藤清正、細川忠興、松井興長(入城順)の4名を八代城主とし、松井江について解説していく。
解説に入る前に、八代城主4名を簡単に説明する。
この記事を読む上で必要な最低限の情報だけ記すので、詳細な経歴は各自で調べていただきたい。
■小西行長
キリシタン大名。
1588年に肥後の南半国に入部し、麦島城(二代目八代城)を築城。キリスト教の布教活動を援助した。関ヶ原の戦いでは西軍として参戦し、敗北したのち斬首される。
■加藤清正
虎退治や七本槍などで有名。肥後の北半国を統治していた。
小西行長亡きあと肥後国全域を統治する。キリシタン達に改宗を命じるが、拒んだ者やその家族など、計11名を処刑している。
■細川忠興
苛烈な逸話が目立つが、茶の湯や和歌などにも通じた文化人。妻がキリシタン。三男の忠利に家督を譲る。忠利が熊本藩主になり熊本城に入ると、忠興は八代城を隠居所とした。
■松井興長
松井江の以前の持ち主。細川家に仕えていた。島原の乱・原城の戦いでは幕府側として参戦し、一揆軍の弾圧に身を投じる。
1646年に松井興長が八代城主に任命されて以降、明治時代まで松井家が八代城主をつとめる。
松井江が八代城主から顕現していると考えられる根拠は以下の3つ。
・紋
・設定文
・「例外」
・紋
松井江の紋は、八代城主の家紋の組み合わせとして見ることができる。
小西行長の家紋は『祇園守紋』
加藤清正の家紋は『蛇の目紋』
細川忠興の家紋は『九曜紋』
松井興長の家紋は『九枚笹紋』
①九枚笹紋の笹の葉を十字架に
②蛇の目紋の●と”穴”を分解
③九曜紋の中央の●と蛇の目紋の穴を重ね、輪にする
④全て重ねると中央に✖が浮かび、祇園守紋の中央にある輪と筒を思わせる形になる。
松井江の持ち主でない細川氏の紋が大きく見えたり、前の主はキリシタンではなかったにも関わらず十字架の主張が強かったりと謎の多い紋だが、八代城主の家紋を組み合わせたものとするとそれぞれのパーツの意味が見えてくる。
以上のことから、松井江の紋は八代城主の家紋を組み合わせたものと考える。
・設定文
松井江の設定文は、他の刀剣男士の設定文と明確に異なる部分がある。
「万能さ」と「血への執着」に関する文章が言い切られていない。
刀剣男士の設定文に「~か」で終わる文章はほとんど無い。
(※設定文に「~か」で終わる文章が含まれているのは、2024年4月現在、千子村正と松井江のみ)
松井江の設定文がこのような形になっているのは意図的と言えるだろう。
言い換えるなら、「元主(松井興長)の影響とは限らない」「刀としての物語から来るものとは限らない」といったところだろうか。
では松井江の万能さと血への執着はどこから来たものか。
これらは八代城主に由来するものとして見ると合点がいく。
万能さ
八代城主は4名とも、戦での活躍もそれ以外の能力も評価されている。
小西行長 戦では水軍を率いて活躍し、文治派として豊臣政権を支えた
加藤清正 猛将としての逸話が残されているが、政務面でも高い評価を得ていた
細川忠興 武断派だが情報戦にも長け、政治手腕も評価されていた
松井興長 原城の戦いでの活躍を評価され、家老として細川家を支えた
このようなことから、八代城主は全員優秀であったことが伺える。松井江の万能さは、松井興長に限らず八代城主全員に由来するものと考えることができるだろう。
血への執着
松井江の刀としての物語とは何か。それは血への執着に繋がるものか。
松井江の来歴は、松井家から徳川将軍家に渡ったところから残されている。鞘に松井興長の名前が書かれているので松井興長の持ち刀であったことは確かだが、どの戦で使われたかという記録も、血にまつわる逸話や伝承も残されていない。
逸話や伝承が残されていない以上、松井江の血への執着は松井江の刀としての物語から来るものではないと言えるだろう。
ではこれを、八代城主由来として見てみるとどうだろうか。
八代城主は4名とも、死傷者の多い戦に出ている。
文禄・慶長の役(小西行長・加藤清正・細川忠興)
関ヶ原の戦い(小西行長・細川忠興)
島原の乱(松井興長)
など。
細川忠興はこれに加えて血なまぐさい逸話も多く残されている。
松井江自身に血にまつわる逸話が無いのなら、八代城主たちの戦歴や血にまつわる逸話も血への執着に繋がっている可能性が考えられる。
以上のことから、松井江の万能さと血への執着は八代城主由来と考える。
血への執着に関してはこの記事内で詳細を詰めているので、このまま読み進めていただきたい。
・「例外」
この台詞で、松井江は自らを例外であると言っている。
松井江に関連するもので「例外」とされるものは、一国一城令の例外として存続が許された八代城のみ。この台詞は、八代城の「例外」とかけたものだろう。
では松井江の何が例外なのか。
これはおそらく、八代城主の物語を持って顕現していることを「例外」としているのだろう。
刀剣男士は、基本的にその刀が持つ逸話や伝説、持ち主の逸話などを元に顕現している。
松井江が前の持ち主である松井興長だけでなく、小西行長、加藤清正、細川忠興といった八代城主たちの物語を持って顕現しているとするなら、それは「例外」と言えるだろう。
まとめ
・松井江の紋は、八代城主の家紋の組み合わせでできている。
・松井江の万能さと血への執着は八代城主由来。
・松井江は、例外として八代城主の物語から顕現している。
このように考えられることから、
松井江は八代城主の物語を持って顕現している
と解釈する。
八代城主
松井江は八代城主の物語から顕現していると述べたが、具体的に誰のどのような要素を持っているのか。
結論として、松井江は主に小西行長、細川忠興の要素を持っていると考えられる。
根拠として、
小西行長は
・キリスト教信仰
細川忠興は
・八代城の逸話
・歌仙兼定との類似点
が挙げられる。
小西行長
松井江は、小西行長の要素を持っていると考えられる。
その理由は、松井江がキリスト教を信仰しているからだ。
・キリスト教信仰
松井江がキリスト教を信仰していると考えられる根拠は以下の2つ。
・十字架
・血
・十字架
十字架はキリスト教のシンボル。
キリシタンは信仰を示すため、十字に見えるモチーフの入った家紋を使用したり、鍔に十字架をあしらったりしていた。
松井江は、紋に大きく十字架があり、その十字架の入った紋を鍔にも使用している。
先に述べたキリシタンの十字架の扱いと共通していることから、松井江は彼らと同じようにキリスト教への信仰を示していると考えることができるだろう。
・血
松井江の台詞に頻出する「血」というワード。
これらは、聖書の中に元になったと考えられる記述が存在する。
聖書の中に血というワードは非常に多く登場するが、今回は松井江の言う「血」の意味と、信仰との関連性について解説するために一部だけ取り上げる。
松井江の台詞ととくに関連性が高いと思われる記述は以下のふたつ。
要約:
血は命。生き物の命は血の中にある。
人の血(命)を流した者は、自身の血(命)を流してその罪を贖う。
これを元に松井江の台詞を見てみよう。
・血を浴び=人を斬り血を流すこと
・血を流し続ける=自身の血で罪を贖うこと
・血=命なので、鍛刀で新しい命が入ったということ
このように、松井江の血に関する台詞は聖書の内容を参考にするとその意味が見えてくる。十字架で信仰を示していることと合わせて考えると、松井江はキリスト教を信仰していると言えるだろう。
そして、八代城主の中でキリスト教を信仰していたのは小西行長のみ。
松井江がキリスト教を信仰しているのは、小西行長の影響だろう。
このことから、松井江が血に執着する理由はキリスト教、つまり小西行長の信仰によるものと言えるだろう。
細川忠興
松井江は、細川忠興の要素も持っていると考えられる。
その理由として、八代城の逸話と、歌仙兼定と松井江に類似点があることが挙げられる。
・八代城の逸話
八代城には血に塗れた逸話が残されている。
隠居して八代城に入っていた細川忠興が、細川忠利の家臣を八代城に呼び何人も手討ちにしたという逸話だ。
八代城主の要素を持っている松井江が、八代城で起きたこの逸話の影響を受けている可能性は高いだろう。
そして、細川忠興はこれ以外にも多くの血に塗れた逸話が残されている。
松井江が血に執着する理由は、小西行長の信仰のほかに細川忠興の血に塗れた逸話の影響もあると考えられるだろう。
・歌仙兼定と松井江の類似点
※歌仙兼定の修行の手紙の内容に触れます。
先ほど述べた細川忠興の逸話は、歌仙兼定の名前の由来となった逸話だ。
つまり、松井江は歌仙兼定と共通の逸話を持っていることになる。
そのことを踏まえて松井江と歌仙兼定の類似点を見てみよう。
類似点として挙げられるものに、二振りの衣服・外見のデザインがある。
・肥後拵……現存する朱鞘ではなく歌仙兼定とおなじ肥後拵
・目元……目の形、下まつげなど
・前髪……右目の上の前髪(生え際の見え方など)が共通
・上着の留め具……紐→チェーンになっているが、石が付いていることや形状が似ていることからも意識しているように見える
しかしデザイン面だけでは根拠として薄いので、台詞から歌仙兼定との類似点を探してみることにする。
○細川忠興のイメージ
松井江の台詞には、自らの印象について語るものがいくつかある。
※修行見送り台詞はかなり情報が省かれているので解釈に悩むところだが、”修行に出た男士を心配する審神者に対して”の「彼のことを心配する気持ちはよく分かる。僕だって仲間のことを想う気持ちは持っているから」という台詞と解釈している。
これらの台詞から、松井江は自らのことを
「実務が得意そうには見えない」
「身に着けるものに気を遣うようには見えない」
「仲間の身を案じるようには見えない」
と思われている、と考えていることが分かる。
個人的には松井江に対してそのような印象を抱いたことはないのだが、これらを細川忠興のイメージに由来した台詞として見ると、松井江が自らをそう評価するのも納得がいくのではないだろうか。
歌仙兼定の修行の手紙の中にある一文を見てほしい。
この一文から分かることは、細川忠興は穏やかなイメージを持たれていない(と想定されている)ということ。
細川忠興は残されている逸話から、短気、嫉妬深い、身内にも容赦しない……といった苛烈で残酷なイメージを一般的に持たれているということだろう。
では”細川忠興が苛烈で残酷なイメージを持たれていること”を前提に、先ほどの松井江の台詞を見てみよう。
「血に塗れてはいるが、こう見えて実務が得意なんだよ」
・細川忠興は血に塗れた逸話が目立つが、実務などもこなす優秀な人だった
「これでも、身に付けるものにはうるさい方でね」
・苛烈なイメージからは想像できないかもしれないが、武具などにもこだわりを持った人だった
「気持ちはわかるよ……僕だって……」
・身内に対して厳しい処罰を下すこともあったが、決して薄情な人間というわけではなかった
このように、松井江は細川忠興のイメージを持たれている前提で話していると解釈することができる。
松井江と歌仙兼定は「細川忠興は苛烈で残酷なだけの人ではなかった」ということを伝えようとしている、という共通点を持っているのだろう。
このような共通点を持つ理由は同じ逸話を持っているからであり、外見に似た要素が見られるのもこれが理由だろう。
以上のことから、松井江は細川忠興の要素を持っていると解釈する。
松井興長と加藤清正
ここまでは松井江が小西行長と細川忠興の要素を持っていることを説明してきた。続けて、同じく八代城主である加藤清正、そして松井江の元主でもある松井興長の要素についても語る。
結論として、この二人の要素は前述の二人に比べてかなり少ない。
松井興長に関しては「浪費に厳しい」という部分が松井興長の要素と見ることができるが、設定文に書かれている「万能さ」に関しては前に述べた通り、松井興長だけに由来するものとは言い切れない。
そして加藤清正に関しては、加藤清正の逸話に由来すると考えられる台詞は見つからなかった。
見落としている可能性も考えられるが、もしあったとしても小西行長の信仰に由来する台詞や細川忠興のイメージや逸話を元にした台詞に比べたらかなり少ないだろう。
(理由として、キリシタンを弾圧したから、小西行長・細川忠興と仲が悪かったから、刀剣乱舞に加藤清正の物語を多く持った刀の実装が控えているからなどが想像できるが、これといった根拠はない)
なにより、刀剣乱舞の松井江の鞘は現存する朱鞘ではない。
朱鞘は松井興長の名前が書かれており、松井江が松井興長の持ち刀であったことを裏付ける重要な要素だが、それが削られている。
松井江の持つ物語の中では、松井興長と加藤清正より小西行長と細川忠興の要素が強い(多い)という認識でよいだろう。
まとめ
・松井江はキリスト教を信仰しており、それは小西行長に由来するものである
・八代城の逸話や歌仙兼定との類似点から、松井江は細川忠興の要素を持っている
・松井興長と加藤清正を元にしたと思われる台詞はかなり少なく、削られている要素すらある
以上のことから、松井江の持つ物語は小西行長と細川忠興の要素が強いと考える。
刀剣乱舞が松井江で伝えたいこと
ここまでは、松井江が八代城主の物語から顕現していることと、八代城主の中でも小西行長と細川忠興の要素が強いことを説明してきた。
では、刀剣乱舞が松井江を通してユーザーに伝えようとしていることは何だろうか。
結論として、刀剣乱舞が松井江で伝えたいことは以下のふたつだと考えた。
・肥後国のキリシタンの歴史
・細川忠興
言い換えれば、八代城が見てきた八代城主の物語だ。
・肥後国のキリシタンの歴史
キリシタンである小西行長が肥後国の南半国を治めたことにより、八代はキリシタン隆盛の地となった。小西行長亡き後、加藤清正によって改宗を拒んだキリシタンの処刑が行われ、松井興長が参戦した島原の乱・原城の戦いではほとんどのキリシタンが弾圧された。
このように、八代城主はキリシタンと深い関わりを持っている。
八代城主のことを知れば、肥後国のキリシタンの歴史が分かるようになっているという訳だ。
・細川忠興
八代城での細川忠興の逸話といえば、息子である忠利の家臣を八代城で斬ったという逸話だろう。
しかしこの逸話は、政務がうまくいかない忠利を見て「これは家臣の補佐がなってないからだ」とその家臣たちを斬ったとされる、息子愛が過ぎた結果とも言える逸話だ(もちろん諸説あるが)。
そのほかにも勘当した息子と八代城で復縁するなど、八代城には細川忠興の息子とのエピソードが残っている。
つまり八代城は、身内に厳しいとされている細川忠興が、息子を大切に思う姿を見てきたということになる。
八代城での細川忠興の逸話を知れば、血生臭い逸話の目立つ細川忠興の違った一面を知ることができるということだ。
まとめ
・八代城主のことを知れば、肥後国のキリシタンの歴史を知ることができる。
・八代城での細川忠興の逸話を知れば、細川忠興の苛烈なだけでない一面を知ることができる。
以上のことから、刀剣乱舞が松井江で伝えたいことは
・肥後国(熊本)のキリシタンの歴史
・細川忠興
のふたつ、
つまり、八代城が見てきた八代城主の物語を伝えようとしているのだろうという結論に至った。
さいごに
刀剣乱舞が松井江で伝えたいことは何かと考えた時に、「松井江のことを調べていく中で知ったこと」がそれに該当するのではないかと気づいた。
松井江を調べていく中で通ってきたものは
これらを総合すると「八代城が見てきた八代城主の物語」という結論になった。
松井江が特定の何かや誰かではなく複数の要素を持っているとすると、松井江を通してより広い歴史を知ることができる。なので刀剣乱舞は松井江に「八代城が見てきた八代城主の物語」を持たせたのではないかと考えた。
ちゃんとした歴史資料を多く漁れたわけではないので知識があやふやな部分も多いが、松井江という刀剣男士をきっかけに肥後国のキリシタンの歴史や八代という地に強く興味を持つことができたので、この考察がどれくらい刀剣乱舞の意図していたものと近いかはともかく得るものは多かった。
また機会があれば、松井江という刀や松井江という刀剣男士の持つ物語に触れる為に各地に脚を運ぼうと思う。
松井江はまだ極も実装されておらず、明かされていない情報も多い。
今後また情報が出たとき、松井江と松井江の持つ物語から新たな魅力を見出せると思うと非常に楽しみだ。
繰り返しになるが、この記事はいちユーザーの個人的な解釈であり、これを正解であると主張することもなければ誰かの解釈を否定するものでもない。
この記事をきっかけに、あなたが自分の本丸の松井江に想いを巡らせ、今以上に愛情を注ぐ時間が増えてくれれば幸いである。
それでは、ここまで読んでいただきありがとうございました。
※後編では、この記事の解釈を元に松井江の台詞やデザインなどの考察・解釈を書いています。
この記事より確信の持てない部分も多く雑多な内容にはなっていますが、興味のある方はお時間のある時にでも読んでいただけると嬉しいです。